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「ある」を「ない」に変えるには

人間は数えきれないほどの「ない」を「ある」に変えてきた。
確かこの「ない」と「ある」に関することを哲学者である池田晶子(1960- 2007)が著書「14歳からの哲学」で少しだけ述べていた。

言われてみると確かにそのとおりである。
例えば目の前にある机、椅子を見てもそうだ。木材や鉄から作られているとしてもそれらを加工し組み立てることによって机や椅子が完成する。
紙も自然の一部であったはずの木をわざわざ切り倒して利用できるものと認識し(ない→ある)紙を作り出した。

形而上の事に関しても同様のことが言える。
家族、友人との絆、信仰、感情。それらは目には見えない。然れども確かに「ある」のだ。我々はそれらを特定の場面で感じることができる。

数字。0、-1、虚数などはどうだろう。これは絶対に存在しない、はずだった。けれども数式、数字としては存在する。
0個とはなんだ?0とは何を表している?
そう、「ない」ことを現している。
このように、ない→あるを私たちは日常で使用している。

そしてこのことについて考えているうちに私の頭の中にはある疑問が浮かんでいた。

逆に「ある」を「ない」に変えることは可能か?

この問題はぜひとも半世紀ぐらいかけて考え抜いてほしい。

冗談はさておき、現在私が有しているこれに対する回答を以下に示していく。

・バラバラにする。
先ほど述べたように例えば机というのは材料が組み立てられて机という形を成している。これと逆のことをすれば「ある→ない」が可能になるのではないか。
仮にあなたがある日突然、錯乱状態に陥ってしまい、むやみやたらに目の前にあった机を破壊したとする。
机はぐちゃぐちゃになりもはや原型を留めていなかった。
あなたはその後正気をとりもどしてぐちゃぐちゃの机を眺めた。
その場合あなたはぐちゃぐちゃの机を机として使おうとするだろうか。
おそらくほとんどの人が使わない(というか使えない)だろう。
これは「ある」が「ない」になったということだ。
机が机であるためには、机は机たる形態である必要があったのだ。

ここでは形而下の例を出した。つまり物質として「ある」「ない」を考察した。

では形而上ではどうだろうか。

悩み
なるほど、これは言語化が難しいが悶々と心のつかえがあるような状態のことを指していると考えてほしい。そしてその問題を解決したとき心のつかえ(悩み)が取れる。これは「ある」→「ない」の瞬間ではないだろうか。


夢とは非常に不思議なものだ。いつか夢についての記事も執筆したい。
今回の着目点は夢から目が覚めたときのこと。
夢から覚めたことによってついさっきまで現実と信じていたことが無くなってしまったと感じられることは、しばしば私たちに起こり得る。
夢での出来事は確かに「あった」はずなのだが起きた瞬間からそれは「ない」になってしまう。

最後に「ない」→「ある」と「ない」→「ある」がほぼ同時に起こっているのではないか。という説を展開したい。
例えばデータを考えてみる。あるデータの平均値をとる際に注意しなくてはならないのが超外れ値だ。こやつがいると平均値がめちゃくちゃになってしまう。
よってこやつを除外してデータを見ることがしばしばある。
これはまずデータをとってグラフにして「ない」→「ある」、つまり解釈を行い、それに反するものは「ある」→「ない」、除外して考えている。

「ある」を明確にする・目立たせるために周りを「なくす」ことをする。これは小説やドラマなどの物語で見られる典型的な例である。

バームクーヘンやドーナツもそうである。
バームクーヘンがバームクーヘンたるためには、そしてドーナツがドーナツたるためにはあえて真ん中の空間を埋めないことが必須である。
埋めてしまえばそれはもうドーナツではないのだ。
嗚呼、嗚呼。ドーナツよ。
お前はドーナツであるために「ある」と「ない」の両方を体現しているというのか……!

というわけで結論に入る。

結論

Q.「ある」を「ない」に変えることは可能か?
A.可能である。

哲学にユーモアは欠かせない。ユーモア無き哲学は眠たくてしょうがない。
そんなことを思い、ドーナツが食べたくなった今日この頃である。



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