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なぜ人は居場所を欲するのか?

居場所。多くの人々は居場所を求める。
ここでいう居場所は自分の存在を確認できる場という風に定義する。

従来より人々は様々な居場所を構築してきた。家、学校、職場。果てはネットのコミュニティ、SNSなど。こうした居場所を人々が構築するのはなぜなのか?それは本能的なものなのか。今回はそんなことを考えてみたい。

場所と人

精神と身体が密接に関わっているように、内界と外界も密接に関わっている。どのような形であれ自身がその場に表出していることが自尊心を充たす上での一つの手段になり得る。
他者に自己が認知されることで精神の安定つまり自尊心の向上が図れるということだ。
前提として、まず人は生まれてからたった一人で生きていくことはできない。育てる人間がいなければたちまちその赤子は死に至るであろう。
ここで「育てられる」ということは他者との接点をもつということ。
他者との交わりが居場所の概念に大きな影響を与えていることは言うまでもない。
言い換えれば、居場所とは安心できる場所であることから自らを育んでくれる場所と認知した場所である。さらに拡大して言えば他人とのつながりをもたらす場、またそこに行けば他人と接することができる場が居場所になる。

本能的ではないかもしれないが……

居場所を欲するのは本能的な欲求ではないかもしれない。
しかし、場合によっては居場所からの隔離は人を死に追いやる。
どういうことか。例を挙げてみよう。
仮に居場所の良さを知っているAさんがいたとする。
しかし、Aさんは独り修行のため山奥にこもり誰とも関わらない生活を始める。勿論ネットの使用も禁止。
二週間後悟りきれなかったAさんは絶望する。なにをしても常に孤独が付きまとう。「咳をしても一人」状態である。
人との関わりが無いことは、自己の尊厳を(少なからず)喪失させる場合がある。やはりなにがしかのコミュニティに属することは死に至る病を患わないためにも重要な事なのだ。


Column:真の居場所

先の例として、学校や職場を挙げてしまったが、真の居場所とは自分自身が目的として扱われる場所であると私は考える。カントで言うところの目的の国と言ったところか。すべての学校や職場に言えることではないかもしれないが、そこでの多くの人間は交換可能な存在である。別にそこにいるのは君である必要はないよね。と言われてもなにも反論できないという訳だ。
カントには先見の明があった。彼は数式を解くかのように未来の問題に自然と辿り着いていたのだ。哲学が問う問題自体に過去や未来は関係ない。確かに数百年も前のことだから、哲学者の解答に様々な反論の余地があるのは否めない。しかし、彼らが提起した問題、さらには解答にたどり着くまでの過程というものは現代でも目を見張るものがある。何かと結果が求められるこの時代。たしかに結果も重要だ。殊に現在の社会においては。だが、過程なき結果は人間の認識上存在しない。問題があり、それに取り組む過程が結果
をもたらす。話が大分逸れてしまったが、とにかく真の居場所を創ることにはたいへんな意義がある。ということを言いたかったのだ。


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