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小さな妖精譚―ひなげしの妖精

 ひなげしの丘があります。空と同じくらいに、丘は広いのです。広い広い丘に、たくさん咲いています。目の覚めるような明るい赤色は、灰の空には、あまり似合いません。でも空には、薄く伸びた白い雲が、幾重にも重なっています。重なって、広がって、すっかり空を灰で覆っています。

 霧が、立ち込めてきます。海のように、小さな水の玉が、転げまわります。歌に合わせて、転げまわるのです。誰の歌?―――妖精たちの歌です。
 蕾が割れて、花が開く音。乾いた葉が、こすれ合う音。雨が土に染み込む音にも似た、小さなささやきの、歌声です。

 妖精たちは、歌い踊ります。一日中、そうしているのです。そうして、ひなげしの花を、育てているのです。薄い紙細工のような、可憐な赤い花びらを。呪いを秘めた瞳のような、黒い花芯と斑を。優しい柔らかな毛に覆われた、赤子のような蕾を。ささやき、そよぎながら、大切に育てているのです。

 霧が、道を見えなくします。境という境を、曖昧にしてゆきます。

 誰かが丘に、迷い込んできます。足音もほとんどないような、弱々しい韻を踏みながら。白い衣は、泡のように、少女の足元をたゆたいます。霧は少女を、すっかり包み込んでしまいます。少女の肌を通り抜けて、その細い呼吸の中を巡ります。

 妖精たちは、気が付きません。静かに日が、暮れてゆきます。宝石のように、空は深みを増してゆきます。

 妖精たちは歌います。ひなげしの花を、寝かしつけるために歌います。
 かわいいかわいいお花さん。赤くきれいな花びらを見せて。明日もきっと、踊りましょう。
 ひなげしの花が眠ります。

 妖精たちは歌います。
 かわいいかわいい蕾さん。下を向くのはもうおしまい。明日は一緒に歌いましょう。
 ひなげしの蕾が眠ります。

 妖精たちは歌います。
 かわいいかわいいお花さん。心ゆくまでお眠りよ。明日の風が連れてくる。お前に眠りを連れてくる。
 枯れかけたひなげしが眠ります。

 そして、少女も眠ります。ぐっすりと。妖精たちの歌が、波のように、少女の足をすくってゆくのです。少女は眠りの海に溺れます。深く深く、落ちてゆきます。

 風が、そよぎます。霧が、晴れてゆきます。夜空の妖精たちが、たくさん、鈴のように踊ります。たくさん、音を立てて踊っています。

 ああ、かわいそうな少女。なんと不幸な少女。帰る道は、もうないのです。霧と一緒に、風が吹き消してしまったのです。少女の髪は黒々として、葬幕のように流れています。でも、死んだのではありません。眠っているのです。安らかな微笑みを湛えて。豊かな睫毛は、澄んだ瞳をいまだ隠しているのです。唇はまだ、ひなげしよりも赤いのです。少女はいずれ、起き上がります。


 ひばりが、朝を呼び起こします。黄金の粉が、降り注ぎます。ひなげしの丘を、妖精たちを、人間の娘を、祝福するために。地が水を飲む音が聞こえます。一つ、命を育むために。蝶の羽ばたきが、涙を運んでくるのが聞こえます。あらゆる災厄を、少女から遠ざけるために。

 少女が、瞼を開きます。清らかな水を、深く湛えた瞳が開きます。瞳が、ひなげしと妖精たちを映します。ひなげしと妖精たちが、少女を包み込んでいます。愛をもって、包み込んでいるのです。愛は、少女の母によく似ています。風が、そよいでいます。

 妖精たちは歌います。
 私たちのお花にするように、愛をあなたにあげましょう。優しく包み込んであげましょう。喜びと、慰めをあげましょう。いつまでも、この丘で生きてゆきましょう。

 ひなげしの丘があります。たくさんたくさん、ひなげしが咲いています。

おしまい

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