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【生きづらさ】マウントを取る人たち

*こちらの記事は、【キャリアと教育】平等とは何か(1)【キャリアと教育】平等とは何か(2)の続編としてもご覧いただけます。

平等意識の高さによる弊害

一つ、大事なことがある。日本では人と接するとき、無意識に相手が自分より上か下かを判断している。

差別ではないが、平等で並列だからこそ、まずタメ口でいこうか、敬語にしようか、考える。
尊敬しているから尊敬語を使うのではない。

たとえば店員を下に見る客、客を下に見る店員、年下に威圧的な大人、このような人間関係は、海外ではあまり見受けられない。

外国には重大な差別が存在するし、人間関係で優位性を誇示する人もいる。
ただ偏った状況を除き、とくに先進国や都市部では、人と接するうえで基本的にはフラットか、相手を敬うか気遣うケースが多いと感じる。

助ける場合も、助けられる場合も、役割は存在しても、そこに「どちらが上か下か」という発想は感じられない。

優越感

障がい者や弱者を助けたいという気持ちは、比較的日本人は強いほうだと思う。

例として私自身、小柄な体型であり、大きいものを持っていたら手伝おうとする人が寄ってくる。
実際にはスポーツ・格闘技の経験が少しあるため、痩せた筋肉質といった感じで、華奢だが健康で力もあるほうだ。

道端でうずくまっていたならまだしも、困ってもいないし、助けを求める仕草や表情もしていない
それでも手伝うのを断ると、逆ギレする人までいる。

「弱者」に手を差し伸べるのはいいことではあるが、言い換えればある種の優越感や自己顕示欲でもあり、失礼ながらかわいそうだとか自分より弱いだとかを無意識にジャッジしているのだろうと思わざるを得ない。

承認欲求

実は少し特徴がある。

真っ当な人はまず「大丈夫ですか?」「手伝いましょうか?」などと声をかけ、「大丈夫です、ありがとうございます」と言えばそのまま去っていく。

善意を優先し、相手の気持ちを無視してまで「助けたい」のだとしたら、本人も気づかないほど潜在的に「自分のほうが相手より優れており、助けてあげる側として困っていてくれれば見せ場ができる」というふうな感情が生まれ、少しでも役に立ったり力になることで、自分が満足し、認められたいのではないか。

客観視すれば、助けが必要でないとわかれば「よかった」と安堵すべきところだ。なのに不満を露わにするのだから、よほど職場や家庭で認められず、肩身が狭いのか、自尊心の低下による周囲への悪影響の一つだと思う。

外資系企業の成果主義

給料は、年功序列(年齢、役職、勤続年数)で決まる。
他に、能力主義(スキルまたは資格や、たとえ結果が出なくても頑張っていること、仕事への意欲や姿勢への評価、人柄など)という内面的要素を加えて評価される。

成果主義と違って、やる気があって、努力しても、結果が伴わなければ給料が下がる、というわけではない。
逆に、コミュニケーション力などで協力を得るチームプレイや、非ワンマンな仕事ができ、アントレプレナーシップを要するのが成果主義だ。
自身の力だけでなく、自分と違うタイプのいろんな人を信頼しなければ成果はあげられない。

日本企業には不向きと言われるのは、頑張っても報われなかったときのストレス等よりも、他人を認めるリスペクトや他者への想像力が不足しているのだと感じる。

外国との比較ばかりすると白人至上主義みたいで気持ち悪いが、接客業だけでも「チップ制」を導入してはどうか
目に見えるリターンがあれば、きっと他人に優しくなると思う。

まとめ

富裕層の家庭の親や、外資系企業の上司は、人を育てるとき、自立させ、自分を超えてくれることを考えるという。
貧しい家の人は、俺/私がいないと駄目だと文句を言いながら、自分を超えないように育てるそうだ。

彼女にするなら自分より背の小さい人がいいとか、頭のいい女性とは付き合いたくないなどという意見も、日本人独特らしいと聞く。
少々できないほうがいい、或いは守ってあげたくなる=可愛げがある、という既成概念は、意識としては好ましくない。

実際に若い人のほうが、体力もあり、仕事もできる。
最新の技術や流行も知っている。
若い人から学ぶことも教えてもらうこともたくさんある。

多少なりとも自分より劣っている存在のほうがいいのだとしたら、上か下かを作らないと人は助け合い支え合うことはできない。


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