生きることとは

ネットの海を漂っていた時、ふと目にした記事があった。
うつ病の人が”生きている意味はあるのか”と質問しており、それに答えている人の回答のまとめだ。
回答者は、元うつ病患者で何度も自殺未遂をしており、色々あって、最終的に実父の死によって寛解したそうだ。
その記事を読んで私も色々と考え、思いを馳せた。

私の妹は、中学校の頃に摂食障害になり、その後双極性障害も併発した。
私はその当時の妹のヤバさを知っているから、自分がしんどい時にも、その頃の妹と比べて自分のヤバさを客観視する癖がある。
だから基本的には、”あれよりはマシだから私は鬱じゃない、ただちょっと病んでいるだけ”という認識に落ち着く。鬱じゃないと思えることは、私に一種の安心感を与えてくれる。
これは私の場合だが、本当にしんどい時はベッドから一歩も動きたくないし、寝て食べて寝て、全てのことに絶望して泣いて、誰も彼もが私のことを嫌っているという被害妄想に陥る。そして、病院に行こうとは1mm も思わない。
この本当にしんどい時期を乗り越えると、自分のことが客観視できるようになり、”今の私は鬱の一歩手前だから病院に行って楽になりたい”と思うようになる。
私の場合、普段日本にいない事もあり、病院に行くことはないのだが…
そういう時、本当に仲のいい何人かの友人らに、”死にたい”とこぼすようになる。本気で生きる気力をなくしているわけではないが、突然猛烈にそのような感情が湧いてきて、それを外に出したくなるからだ。
ある友人は、”わかる。自分もそうだから。自分もしんどくて死にたくなる。お互い次会う時まで頑張って生きよう。死にたくなったら自分も連絡するよ”と返してくれた。
ある友人は、”あなたは私の大事な人だから、死にたいだなんて悲しいこと言わないで。生きてる限り私が支えてあげるから”と言ってくれた。まあ後者の友人には後に、”仲のいい人に、死にたいって何度も言われるのはしんどい。そういうネガティブなところ直したほうがいいよ。周りにも悪影響与えるから”とも言われたが。
確かに、他人からネガティブを受け取ることはしんどい。しかも病んでいる時なんて、ほぼ毎日のように口に出していたし。周りに迷惑かけていたことも事実だったし、実際嫌われてもいたと思う。
元気になった時には、確かにそうだったなと思えるし、ネガティブはやめようとも思えるが、しんどい時にそれを言われてしまうとよりしんどくなってしまう。
本来は、そういったカウンセリング的なことは素人の友達にするのではなく、プロに頼むべきなのだろう。
しかし、プロに話すということはなかなかにハードルが高い。
私は人見知りをするし、親しくない人に対して外面を取り繕う。
それに私は、ダメな自分を説明するのが苦手だ。大丈夫です。ちょっと落ち込んじゃっただけで…となってしまう。
心療内科に行くと決めた時には、ちゃんと自分のしんどいことを明文化しなければ、うまく伝えなければ、と自分で自分にプレッシャーをかけてしまう。そして、自分について考えているうちに、こんな軽い症状で受診するなんて、本当に困っている患者さんの枠を使ってしまうのは申し訳ない、となり、病院へ行くシミュレーションばかりして、結局行けない、を繰り返す。
そんな時SNSへ逃げたくなるが、リアルの知り合いが何人もフォローしており、呟けば時に慰めてもらえるが、仲のよくないただの知り合いから、陰で”あいつはすごく陰気で病んでいてやばい”と言われているという被害妄想もつきまとう。実際SNSを見て心無いことを言う人がいることを知っている事もあり、より一層思い込みも激しくなっていた。

生きていれば、辛い事もしんどいことも死にたくなることもあると思う。
私はプロのカウンセラーではないから、もし友人にそのようなことを言われても何も解決してあげることはできないが、私はあなたの敵ではないよと寄り添ってあげたいとも思う。多分それがあの時の私がして欲しかったことだから。それを周りの人に求めたのは間違いだったと今では思うが。

私の読んだ記事には、最終的に生きている意味はない。と書かれていた。生きているだけで意味のある人間がどれだけいるのかとも。
人の生命そのものには意味はなく、あるのは”時間”だと。そして時間があるから”行動”ができると。
読んでいてすごいなと思ったし、納得もした。時が止まったように、生きているようで生きていない、そんな状態が鬱だと思った。
全てに共感したわけではないが、命とは時間である。という言葉は重いなと思った。
私は、生きている意味はあると思う。しかしそれは自分から見た自分、主観的な自分ではなく、例えば親から見た自分、パートナーから見た自分、友人から見た自分、など客観的に見た自分なのではないだろうか。また、ペットの世話をするために生きる、復讐をするために生きる、ということも立派な生きている意味になると思う。この場合は、完遂した後に生きる意味がなくなってしまうと言われればそうだが。言葉にするのは難しいが、自分の命を自分から離れて考えた時に、生きている意味は生まれてくるのではないだろうか?
まあこの回答をうつ病で生きている意味に悩んでいる人に言っても仕方がないし、そういう人に向けたら確かに、意味はないという回答になるのも納得はいく。自分主体で考えた時、生きている意味などないと私も思ってしまうからだ。

私が前回病んだ時は、本当に鬱の一歩手前だったと思っていたが、今思えばあの時私の時間は止まっていた。周りの時間だけが進んでいき、どんどん置いていかれるのは恐ろしく、また怖かった。
時間が先か行動が先かはわからないが、いつしか、行動をすると共に、私の時間は動き出していた。
今も私の時は流れており、行動も続けられている。
前の私は、上手くいかなくなり病んでいた時、これができないなんて死ぬしかないという短絡的な考えを持っていたが、後者の友人に言われた”仲のいい人に死にたいと言われるのは精神的にきつい”という言葉を受け、最近は考え方を変えるようになった。
もし今やっていることが上手くいかず、大成できなかったとしても”物理的に死ぬ”のはやめようと。
今現在頑張っている”私”は死ぬけど、新しく生まれ変わった気持ちで、今とは全く違う”私”に生まれ変わろうと。
さらに、今を生半可な気持ちで生きないように、転生後の自分のやることは、現実的でないことにするという縛りをつけた。
その結果、もし今やっていることが継続不可能になった場合、私は芸能界に入るんだ、と思うようにした。芸能界に入るなんて、生まれ変わりでもしないと無理なことだからこそ、今を全力で生きるためにそう決めた。
これは伝え方を間違えるとふざけているようにしか聞こえないから、あまり人には言っていないが、そういう考え方をするだけで気持ちが軽くなった。
死にたいと思う私も、死にたいと聞きたくない周りもどちらも配慮した最適解なのではと思っている。
”死にたい”ではなく、”もう生まれ変わるしかない”となるからだ。このしょうもない感じが、シリアスになった気持ちを少し楽にしてくれる。
変な話だが、”死後”を設定したことによって、”今”のモチベーションが保たれている。
私の今を生きる意味は、今目指していることを成し遂げて周りを見返すこと。私のしてきたことは無駄じゃないんだ、と周りに示すこと。
そのためには、行動し続けなければならない。
行動とは、時に苦痛を伴う。
それを乗り越えて大成した時、今まで応援してくれたり、無条件に支えてくれた人たちに、感謝を捧げ、恩返しをしたいと思っている。それと同時に、周りの人たちのことを見返したい。私だってやればできるんだと。
生きる原動力は多少ネガティブだっていいじゃない。

取り留めのない散文になってしまったが、どうせ誰も読まないだろう。
知り合いもフォロワーもいないSNSに乱文を載せることは私のストレス発散にちょうどいい。誰かに自分の考えを知ってほしい欲求はここで全世界に公開している時点で満たされているし。
もし読んでくださっていたら、ありがとうございます。


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