白蛇
10月暮れの、夕日が透き通る暖かい水曜日のことでした。先刻生協で買ってきたばかりの柿をさっと水で濯いでベッドでそのまましゃぶりついていると、足下から白蛇がしゃなり、と出てきました。
白蛇はそのままベッドの周りをぐるりと回り、お台所の方へと行きました。しばらくするとまた戻ってきて、今度は私の前で半身を反り立たせ「しゃあ」と言いました。白蛇の全長は私の指先から肘くらいまで、太さはピンポン玉くらいです。私は白蛇の首根っこを掴まえて、お台所で水で濯いでそのまま尻尾の方からがぶり、と食べました。皮は固くて噛み切れず、ちょっと土っぽい味がしました。
「やめなさい!みっともない」白蛇に怒られました。ぐるっと身を翻し右手の小指をかぷ、と噛まれました。噛まれた指からぷつぷつと出血し始め、「痛い」と言うと白蛇はテーブルの上からカット絆を持って来て「自分で貼りなさい」と言いました。私は小指にカット絆を貼ってから、血が滲んでいる白蛇の尻尾にも同じものを貼って、ついで昨日食べたショートケーキのピンクのリボンを結んであげました。
「こんなもの似合う歳じゃないんだけど…」とぶつぶつ文句を言うので、「何歳なの?」と聞くと「百六歳」と答えました。百六歳がピンクのリボンにふさわしい歳かどうかはよく分からなかったので、私はリボンをそのままにしておきました。
「ご飯はないの?」白蛇は言います。
「炊いてないお米なら、あるよ。いるの?」
「炊いてよ。」
「洗い物めんどくさいから、やだ。私食べないし」
「随分だらしないのね。」
「蛇のくせにうるさい。」
「蛇って呼ばないで。ミツコよ。」
ミツコはお腹を空かせているようでした。しかしあんまり好き嫌いが多いので、私の家にあるものでミツコの食べられるものは豆パンだけでした。ミツコは手のひらサイズの豆パンを三つもたいらげました。
その晩、夢を見ました。海の見える夜明け前の歩道橋の真ん中を、裸足で歩き続ける夢でした。歩道橋は足の感覚が無くなるほどひんやりとし、そして、終わりませんでした。どこまでいっても階段の無い歩道橋を、私は海の方に向かって歩き続けていました。船がいくつか、停まっていました。
午前三時二十分。布団の中から確認して、横になったままいつかの飲みさしの紅茶を飲みました。ミツコの姿は見えませんでした。どこかで寝ているのかもしれません。起き上がって冷凍庫から葡萄をいくつか食べ、ぬるいシャワーを浴びました。
裸のままゆらゆら踊っていると、「おしとやかにしなさい、おしとやかに。」と言われました。ミツコは風呂場から入ってくる光に迷惑そうな顔をしていました。「おしとやか。おしとやか。」繰り返しながら踊っていると二の腕がひんやりしてきたので、分厚いトレーナーをすっぽり被りました。
なんだかお腹が空いたような気がしたので、柿を洗ってベッドで食べました。ミツコは要らない、と言ったのでローソンの「そのまんまマンゴー」を渡すと酸っぱい顔で一粒二粒、食べていました。
パンツとジーパンと、それからドライヤー。あとは、ジーンズ生地のダッフルコート。あ、靴下。片方しか見つからなかったので、もう片方は足袋を履きました。これで良し。四時過ぎでした。
私は煙草とチョコレートとミツコをポシェットに入れ、出掛けました。坂を登って下ってまた登って、三十分くらい歩くと海の見える歩道橋に着きました。歩道橋の手前の灰皿付きのベンチに座るとお尻がじわじわ冷えてきました。
「ミツコ」私は呼んでみました。
「なあに」
「煙草吸っていい?」
「いいけどあなた、何しに来たの?」
「わかんない」
「もっとお行儀よくなさい。女の子には大切なことよ」
「お行儀よく。お行儀よく。」呟きながら煙草を二、三本吸いました。海は真っ黒でした。
私は歩道橋を海の方へ歩き始めました。もしかしたらずうっと遠くまで行けるかもしれないと思いましたが、すぐに階段に行き着いてしまいました。仕方がないので階段を降りて、小さな公園を突っ切って海に一番近い所まで行き、小さな手すりを乗り越え海を覗き込みました。
「あなた、落ちるわよ」
「それも又良し」
「深くて戻れなくなるわ」
「そしたら尚良し」
「海の中は寒いわよ」
「寒いのは嫌い」
私は寒いのが嫌いなので帰ることにしました。ベンチでミツコにチョコレートを一片あげると、「もたもたした味がする」と言われました。空はうっすらと白くなり始め、数台、船が動き出しました。私は始発の電車に乗りました。
電車を降りて外に出ると、もう薄明るくなっていました。「なんか食べたいものある?」ポシェットを開け問い掛けると、煙草と食べかけのチョコレートだけがありました。ひっくり返したら、小銭が出てきました。私はローソンで豆パンを五つ買って帰りました。
部屋に戻るとカーテンの隙間から日の光が入り込んでいました。私はカーテンをぴったりと閉め、コートとジーパンをベッドの柵に引っ掛けて「おしとやか。おしとやか。」と呟きながら布団に潜り込みました。