見出し画像

性加害とかいじめを、そろそろ犯罪と呼ばないか #11

こんにちは。和泉 まどかです。
情報過多の現代で、情報に溺れていませんか?
前から疑問に思っていた性加害、いじめという言葉について書きました!気軽に読んでいってください!暗い気持ちになったときは、タイトル上のかわいいイラスト(スノームーンさん作)を見て癒されてください!

もう性加害という言い方は止めないか。

昨年2023年は、この「性加害」という言葉をニュース番組で聞かなかった日はなかったのではないか、と思うほど聞いた。性加害と聞いて「STARTO」、「SMILE-UP.」を思い出すひとが多いのではないかと思う。伝統ある事務所の名前を変え、再出発を迫られた。旧〇〇事務所という言い方はしたくないので、ピンとこない場合は調べてね!

私は、新たに改革の一歩を踏み出したのなら、そちらの名前で呼ぶべきだと思うし、いつまでも我々が昔の呼び方が呼びやすいという理由から前の名前で呼んでいたら、被害者の方はいつまでも思い出すことになり、問題は解決しないままになってしまう。それに、再生は何もその会社だけですることだけでなく、メディアもファンも、ファンでない人々たちも、力を合わせてしていくことだと思っている。その件だけではないけど、この件が特に強烈で、生々しくて、聞いてるこちらが本当につらくなった。

それで本題。
「性加害」って何なんだ。
「性加害者」って何なんだ。
なぜ「性暴力」「性犯罪」と呼ばないのか。

「性加害をした人」では言葉がやわすぎる。
「性暴力をした人」は妥協点、「性犯罪者」でようやく合格、もしくは「性暴力をした犯罪者」(これは実際に使うとなったら文字数、表現が過激であるという理由で難しいかもしれない。)私としては、この表現が強いと分かっているうえで、この言葉を用いても良いと思う。被害者はそれだけ被害を受けたのだから、それに見合う表現の強さが大事だと思うのだ。

性加害という言葉はなんか性暴力より強さが足らない感じがする。

「いじめ」は犯罪と言いつつ、全然犯罪と呼んでくれない

「いじめ」という言い方も何なんだと思っている。
最近は、いじめは犯罪というフレーズを聞くようになったが、報道で用いられるのは「いじめ」であって、教育委員会によると「いじめ」の事実は認められなかったとか、学校によると「いじめ」の事実はないといった文脈で使われる。

いじめは犯罪じゃなかったのかよ。
暴言を言う、仲間外れにする、悪口を言われる、馬鹿にされる、暴力を振るわれる、こういうのを「いじめ」と言って、しかも、その事実すらも、頼みの綱の存在であるべき大人が認めようとしないってどういうことなんだ、と問いたい。

子どもだったら何を言っても許される、何をやっても許される。それはおかしいと思う。私はむしろ、社会や常識をよくわかっていない子どもでありながら、他人の心を虐げることに一時的にでも快感や快楽を感じているって異常だと思う。

いじめの加害者にも未来があるという言葉も聞き飽きた。その前提に、被害者にも未来があるという事実を見ていないだろ、と感じる。被害者に未来があることを本当に知っていれば、被害者が心を病んで、孤立感を感じ、誰からも助けてもらえなかったという気持ちを抱いたまま人生を送ることになる・・・なんてことは一番に避けたいことなのだ。「それもわかるけど、加害者にも未来がある」なんて言葉は誰を守る言葉なのか?加害者でも、被害者でもなく、自分の立場を守りたいと言った方が潔い。もし、加害者の未来について触れたいなら、加害者にも未来があるから、ここで厳罰を下すことによって、更生に尽力するという言葉が代わりに出てきそうなものだ。あいにく、そんな加害者・被害者思いの言葉を教育機関の表明から聞いたことは少なくとも私は一度もない。

そう、日本は被害者に寄り添ってくれないのだ。
被害に遭ったら、何とかするよと言いながら、いざとなったときには容赦なく見切るのだ。まるで、よく比喩として使われる学生時代のマラソン大会そのものだ。一緒にゴールしようね、と約束しながら、一歩先にゴールしてしまうのだ。それを信じた方は拍子抜けしてしまうし、勝つためにはそうするしかないのだと学ぶことになる。

人を見捨てるやつがいるから、見捨てられたひとが、自分のためにこれからは自分もひとを見捨てようと思うようになる。そうして、循環する。

どこかで、この流れを途切れさせることができたら良いが、これがなかなか難しい。ひとを見捨てないひとが都合よく利用され、ひとを見捨てる人間の方が幸せそうだと勘違いしてしまうからだ。嘘をついても、裏切っても、あんなに順調そうに人生を楽しみ、幸せそうだと見えてしまう。

つまりは、ひとを見捨てないことで得られるメリットが少ないように感じる、これが問題だ。だけど、私は、そうした人間にはいずれ罰が返ってくることを知った。私は因果応報を信じている。因果応報は必ず存在する。今これを読んでくれているあなたがそんなもの嘘だと思っても、それはまだ相手が罰を受ける前だろう。

本当は、こうした出来事に関する言葉が使われなくなって、こういうときになんと表現するべきか迷ったり、適切な言葉なのか疑問に思ったりする人がいなくなるくらい、加害者も被害者も生まれないでほしい。

それでも、日本は残念ながら、こんなに毎日毎日犯罪、特に性犯罪のことをニュースで聞くのに対策が重要視されない。日本には、女性が被害に遭った時、被害者の女性に非があると言う人がネットでも、現実でもいる。たしかに、私も被害者の女性があまりにも警戒心がなくて、世の中の恐ろしさを知ろうとすらせず、対策もしていなかったら、被害者に非があると考えてしまう。自分が警戒心があまりなくて、ひとや世の中が恐ろしいことを知らなかったせいで、深く傷つき、今でもそのときの傷があるために、警戒心を持つようになったからだと思う。

自分も被害者の立場になったことがあると、その経験に打ち勝とうと頑張り、被害者だったときの自分が悪かったのだと考えてしまうからかもしれない。生存者バイアスによるものもあるだろう。自分が生き延びたから、その事柄は大したことではないと考えること。しかし、だとしても、被害者が100%悪いなんてことは絶対にない。トラブルが起きて「自分 と 相手」のどちらか悪いか考えるときに私は自分が100悪い、相手が100悪いと考えてしまうことが多かった。

だけど、自分と相手のトラブルなのだから、どちらが一方的に悪いのではないと気づき、50:50で自分も相手も半分悪くて、半分合っていると一旦考え直すようになった。

もし、事件や事故、トラブルなどに巻き込まれ、被害者の立場になった時、自分が悪かったと感じて辛い気持ちになったら、最大でも自分は50しか悪くないと思ってほしい。改善できるところがあれば、これから気をつければいいのだ。

加害者の立場になったとき、自分が誰かを傷つけてしまったことを反省していたら、そもそも相手が100悪いとは思わず、自分が100悪いと感じて、こちらもまた辛く、どうしたらいいのか、と思いつめてしまうこともあると思う。そのときにも、最大でも50悪い、残りの50は環境やそのときの状況、タイミングのせいにして、思いつめないようにしてほしいと思う。一度、大変なことになってしまったと思っても、それを一生、どんなときも覚えていないといけないものではないから。人を傷つけて、なんてことをしてしまったんだ、自分はダメだ、と思っても、人生を終わりにしなくていい。

まとめ

・悪には悪だと、誰もが認める名前を付けていこうよ

・悪いことはどこまで行っても、悪いことという認識が大事

時間の経過やその他の要素からそこまで悪いことではないと思いたくなっても、悪いことは悪いことだと捉えることが大事だと思う。時間の経過によって、「悪いこと」が「普通なこと」に変化することを求めない。

定期的にこれからも言葉や言い方についてアンテナを張っていきたいです。適切でないと思う言葉を使わず、言葉に対する責任を一人一人が持っていれば、いさかいもトラブルもなくなっていくと思います。

最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
いいなと思ったらスキ、フォローしてもらえると嬉しいです。
コメントも必ずお返事するので、ちょっと感想書きたいな、と思ったら書いてくれると嬉しいです!

またnoteでお会いしましょう!
あなたにハッピーなことがたくさんありますように!

チップとしてサポートしてもらえると嬉しいです!