個人主義者による絆とは、壁であり結界となる/note引用/りん@ENTPさん #9
こんにちは!和泉 まどかです。
私のnoteを開いてくれてありがとうございます!
今回は、りん@ENTP_8w9or8w7(小説、脚本、漫画家志望)さんのこちらのnoteを引用させてもらいました。
他の方のnoteを引用して書くのは初めてなのですが、どうしても読んだあとに、得た気づきを書きたいと思いました。りんさん(勝手に省略して呼ばせてもらっています)や、同じようなことを感じている方をはじめ、気にしたことがなかった方にも何かしら新たな視点を得るきっかけづくりになったら嬉しいです。引用の許可もいただいています!
早速、引用しながら書いていきます!
一つの引用に対し、私の文章が長文で、話が飛躍しています!ご注意を!
まず、後半の「実は」以降が文章で読んでいるはずなのに速さ・早口感?を感じて、何度も読み返しました。言語化がスムーズすぎて、追いつけない感じを体験出来て、面白さを感じます。アトラクションみたいです。
気になるところまずそこか?と自分でも感じながら、内容について理解しながら読んでいくと、あぁ~わかるな、ああいうことかな?といくつかイメージが浮かびます。いわゆる内輪ノリというやつで、会話に参加している参加者とそうでない人々を区別するような話題、、、例えば、みんなが知っている「あのひと」のモノマネをしたり、こいつはこういう奴だから、みたいな暗黙の了解のもと、許されている無礼行為とか。
その場にいる全員が、ある一定のレベルの認知をしていることが当然であり、なにそれ?と言ってしまった際には「え!知らないの?みんな知ってるよ」とか「有名だよ?」と言われるような状況のことかなと思ったので、違うかもしれないけど、話を進めてみます。
以下、話が飛躍します。
内輪ノリという名の、閉ざされた門のなかでしか楽しめない、品のない排他的な人々
先の状況、特筆すべきなのは、みんなが知っている「あのひと」のモノマネはなぜか、芸能人や有名人ではなく、もっと身近なひとだ。学校の一癖ある理科の先生の口癖とか、普段無口だけど得意分野になると饒舌になるあの子(ちなみに、その集団の誰もその子と仲良くはない。またこれ以上仲良くなりたいとは思っていないように見える)みたいな、本人の前で披露するには毒が強すぎる「モノマネ」だと思う。
「モノマネ」というか、馬鹿にして楽しんでる。
それを本人たちもわかっている。
褒められるようなことではないとわかっているから、本人には言えない。
これがエスカレートすると、本人の近くで合図を出したり、目配せをしたり、いじめに近いことをする。
そして、その標的とされている当人は気づいていないことが多い。
これは、そういう楽しみ方をする集団の狩猟能力が高いというのもあるし、標的とされるひとが他者から攻撃されることに鈍感であるというのもある。
このどちらかの条件が崩れた時、自分が標的となっていると気付くのだ。その場合にいじめだと認められるかもしれない。いじめは気づかれなかったり、断定できなかったりするときは、ないものとして扱われやすい。狩猟能力が高いというのは、獲物を見極める力のことであり、学生とりわけ高校までだと、「教師とよく話す同級生」を狙うことはない。揉め事になったらそれこそ、自分たちの楽しみが失われるから、バックに強い人間がいると分かれば手は出さない。
つまり、舐めてかかって、こいつなら笑いものにできる、という相手を探しているのだと思う。私はこういう状況に何度も遭遇してきたけど、私の周りには、色々な意味で問題のあるひとが多かったので、もしかしたら一般的じゃないかもしれない。私はこの不愉快な内輪ノリ文化が行われていると狭いクラス、学年の中で、誰が誰を狙っているのかすぐにわかった。
でも、何度も言うが、獲物を見極めているところが厄介で、私一人がその不快感に気づいたところで、他の同級生は「そう?」と言って終わるし、教師は本人から相談を受けていないという理由で取り合ってくれなかった。集団に直接それとなく注意をしても、笑ってごまかされるだけだ。私はそういうことに気づくくらいの洞察力があり、責任感や正義感が強かったみたいで、そういう集団がいると自分がターゲットにされていなくても苦しかった。自分が無力で、何もできないというのも、誰も気づかないということにも、むしゃくしゃした。
こうしたことを、引用した文章から察して、あの忘れかけていた不愉快な仲間意識に向き合えた。引用元の話に戻るけど、私も周りに個人主義が多いと感じる機会がたくさんある。さらに言えば、
日本には個人主義者が多すぎる
と思っている。海外を知らないから、ざっくり日本限定にしたけど、小中高、大学と環境が変化しても、人間関係のパターンは少ない。個人間で集団ぽくなって集団主義のようになってるけど、実のところは個人主義だと思う。身内至上主義で、身内と外部を切り離す感じとか、一度身内扱いされたら逃れられない感じもする。(逃れようと思うんかい)
今、私は大学生だけど、念願の大学生になれたとき、すごく嬉しかった。
これからあの狭いクラスや学年のいざこざや変な集団圧力やクラス政治?を気にせず、たくさんのひとと出逢える!合わないひとはいるだろうけど、そのときは私にも相手にも学内で他の仲良くなれそうなひとに声をかけていけばいいから、本当の友達がようやくできるかも!と楽しみだった。
実際は違った。友達が欲しいのに上手くいかず気分が落ち込んで授業を休んでしまったこともある。。。授業で課題やテストのこと、バイトのことしか話さないのに、一緒に受講しないといけない、合わせなければいけない、というのが辛くなってしまった。初回の講義に私が何となく話しかけて、流れで一緒に授業を受けていたけど3回目くらいで、深い話しようとしても流されたり、すぐに否定されたりすることに気づいた。疲れるから他の子と仲良くなろうかな、とそのときに思っても遅いのである。
授業3回目にはもう入る隙がないのだ。
かといって、こちらにも情があるので、この子を一人にして、別々で受けるのも気まずいよな~とか、何とか人数増やせないかな(緩和するため、また他の気の合いそうな子と仲良くなれるチャンスを増やすため)と考えても、もう遅いのだ。それがストレスです。
逆にこちらからしたら、ただ最初に話したひとと何でずっと一緒にいられるのかな?と思うし、話を毎回否定しておいて私が離れていかないとよく高をくくっていられるな!と思う。同じ授業をとっていない子に、決まったひとと行動を共にするのってストレスにならないかと聞いても、誰もストレスにならないと言う。信じられないよ。
私は就職するなら、毎日違うひとと関わりたいと思っているし、とにかく少人数で上手くやって、という環境が苦手なのだ!!このひとはOKで、このひとの○○はダメ、とか○○さんはこういうひとだから、○○はやってね、とか、そういうローカルルール、しかも意味もよくわからないもの、従いたくないね!悪いけど!このあたり、MBTIでいうS型なら適応力が高いため、基本上手いことやれる気がする。
そりゃこういうこともあるよなあ、と思う。残念なことだけど。
ひとによって許される度合いが違ったり、状況を変えようとすると拒んできたりするひともいる。そんなに今が快適かな?快適だと感じていないひとがいて、行動を起こそうとしているときに「いや、やめといたほうがいいよ」って言う人って、ほんとに親切心?それとも、この状況を変えないことが本当にベストだと思って疑わないのかな?と疑うし、私は心も閉じます。このひとに助言求めて相談しても、自分にとって良いことないなって思っちゃう。反対意見も聞くべきだと思うけど、理由聞いても納得できないこと言われて何でそれがそんなに大事なのかな?と本気で思う。ひとによって物事の重要度は違うよね、とだんだん理解してきた。
ところで、
絆は壁と同じなのかもしれない
と思った!
私は絆というと、ひものイメージがあった。
運命の赤い糸って言ったりもするし、ひとの間の強い結びつきは何となく糸とか紐みたいな切れそうで切れない!それだけ気持ちが強いからってことだと思ってた。本来すぐに切れちゃう糸をつなぎ留めたいとか、切れないように大事にしたい気持ちが愛とか友情とか、ひとつの絆だと思ってた。
けど、ふと絆って、「壁」なんじゃないかな、と思った。
ここはレンガのイメージで、毎日そこにいる人間で好きな数だけ毎日それぞれが積み重ねていく。そうすると、このひとからはこの集団に入りにくい、とか、このひとは比較的自由にグループを行き来するし色々なひとと話すな、という現象に納得した。ひとによって、自分のエリアに積み重ねるレンガの数が違うから、跨ぎやすさが変わるのかな。敷居が高いとか低いという言葉もあるし、跨ぎやすさって親近感とか軽い気持ちで近づける安心感と密接にかかわってるのかもしれない。
壁が高くなればなるほど、今度は結界としての威力を発揮するようになる。壁の向こうが気にならなくなるから、自分たちが周りからどう見られるか、これをしたら良くないかな、と気にしなくなる。この抽象的イメージを現実で置き換えると、場所に合わない声の大きさや、道幅も気にせずに横並びで歩いたり、話しかけてきた人に若干嫌そうな目を向けたりするみたいな感じを想像した。
・・・なんかさっきから私のイメージする集団、性悪すぎないか?
くれぐれもこれは私のイメージで、多分世の中こんなひとばかりではありません!そう、読んでくれているあなたのように、真っ当なひとがたくさんいます!
絆って結界に近いのかもしれない
と気づけたことは私にとって大きな収穫だった!
うーん、こんなに考えて、こんなに長文で言葉にできるのに、理解されないってなんで?と私も思いました。どういう意味なのかなって思っても聞いたら誤解ないように答えてくれそう。ひとって複雑だし、矛盾してしまうもので、それは皆が抱えているもののはずなのに(自分の言動の矛盾を嫌う私が言うなよ)私は何となく単純にあー、こういうことかなーと感じたものが全て間違っている可能性が出てきて恐ろしいです。。。
後半の行は言い得て妙だなあと感じて笑ってしまいましたが、りんさんが、なのかENTPの性質なのか分かりませんが、バランス感覚が良すぎるんだと思います。
世の中のひとって信じられないくらい、何も考えてないんだと思う。私はひとに合わせた「カスタマイズされた自分」を出して、悪く言えば計算しながらコミュニケーションとってるところがあります。だけど、素の私でいることを認めてくれるひとに好きになってもらえばいい!と思う時もあります。それで、素の自分をなるべく意識しながら関わるようになっても、何も変わらなかった。やっぱり、カメレオン気質というのが素の私を構成するひとつの要素になっているから、素の自分を追い求めるほど、虚像を演じて自分って何がしたいんだろうという状態になってしまう。他人の私を見る目だって、変化は感じなかった。
他のひとは、そんなに誰かを認める/認められることに重きを置いてなくて、みんな好きなようにすればいいじゃん?というスタンスでいられて、他人に関心があまりないひとが多かった。第一印象で判断されて、それがずっと続く。他人からして少し予想から外れる言動をしたとき、意外と言われたり、訂正させられたりする。私は別に隠してるつもりないけど、見つけてもらえない感じ。あと、私の長所である、優しさや気遣いは見えないところで上手くやりすぎて気づかれないみたい。気づかれなければ、認められることもないし、褒められない。誰にも言われないので、noteでは言わせてください!
優しさとか気遣いってすればするほど、舐められて下に見られる。優しさを当たり前だと思って、感謝もしないで胡坐かくようになるよね。
皮肉が強いけど、日本はひとに優しくしようという文化みたいなのがあるけど、口だけだよね。常に優しいひとは、自分が優しくいられないときがあるからこそ、他人に優しくあることを強制しないと思う。だから、ひとに優しくしようというひとは、「気まぐれで優しくする自分」に無意識のうちに酔っていて、優しさを広めよう(実質強制)とする俺/私って優しい~っていう、とんだ泥酔野郎によるお祭り騒ぎみたいなもので、だからシラフのこっちは、「他人に優しくしようって言ってたけど、、?」となる。酔っ払いの言葉だと思えば、嘘ついてるって思わなくていいから、楽になるかもしれないと今気づいた!朝から晩まで、酔っ払いばっかりだ~!と思うようにしてみる。
言ってることとやってることが違うほど、人間らしさを感じて好感をもつ、、という気色悪い文化。
不気味で、気味が悪いです。言うことと行動が一致しているほど、誠実さとか正直さとか実直さを感じて、好感持つんだよ!私は!!自分が矛盾した言動をとっていたと気づくとき、自分もやってる。。直さなきゃ。直そう。考えの方が正しいと思ったら行動を変えようとする。だから、矛盾した言動を他人に受け入れられて、なぜか喜ばれるとやめてくれーと思っている。私の知らない一面を見た、そういうところあるんだね、と言われても私は全然嬉しくありませんよ。後悔する。自分で矛盾に気が付かないで、他人に指摘されて、しかも喜ばれて、私は自分の矛盾したところも悔しいと思うし、その矛盾を喜ぶそのひとの反応を見て、なにこのひと?怖いなって思う。足をすくわれる感覚が生まれて、このひとに笑われたくない、欠点も弱点も見せたくない。同類だと思われたくないって感じてしまいます。
病むことがないって凄いな!と思った
私が病むか病まないかでいえば、病むタイプだと思うので、病むことがないと言い切れるのはすごいな~と思います。でも、凄いなって思っても、病まないための努力とか工夫とかしてるとか、病めない環境があったということも考えられるので、嫉妬とか嫌味じゃなくて単純に違うタイプのひとだ!すごいな!って感じです!
疑問に感じるとあるので、私もちょっと考えてみました。巷で言われる「まじで病んだ」とか「今日うつだわ~」みたいに使われるのは、絶対病んでないし、憂鬱な気持ちはあるかもしれないけど、軽々しくうつ病を連想させて心配されようとするなよ、と思う。私は気分が落ち込んでも、現実で「病む」って言えない気がする。過去形で、しんどかったとか眠れないくらい気分が落ち込んだ、とは言えても、進行形のときは難しいな~。
これってどう解決できるんだろう?ってことをずっと考えて、悩んで、ポジティブな考えや気持ちにどう頑張ってもなれないときが、「病む」なのかな。それで、「病まないひと」はどこかで大丈夫だと思えて、自分の考えか、自分自身を信じられるんじゃないかな、と思います。
私の場合は、他者に否定、批判されると、私は自分が間違っていたのだ、正さなくてはいけない、と思って自分で自分を追い詰めて、いつしか自分が自分の最大の敵になってしまう。こういう敵、味方思考や白黒思考をもつ完璧主義者だと、病みやすいのかなと思いました。自分のことです。意識してこういう完璧主義や他者の考え・感情が常に正しいと思うことをやめようとしています。この意識が強いと、それこそ病むからです。
もし、私のこういう思考に興味があったらこちらも読んでみてください!生きてることがバレたくないと思うくらい、裏切られたと思った経験、ひとに隠したいことが多すぎて、警戒心が強くなってしまった話を書いています!
これ書けるのすごい!
何でこんなこと書けるんだろう?凄い、、!
こう思ってても絶対自分は書けないし、何か嫌味がなくて素直にこう書けるのすごく羨ましいです!!!!自分にないものを見て、眩しい。。。(ひとを妬むなよ)
弱音とか素直な気持ちを伝えても嫌味だと捉えられるから、あんまり自分の感情をひとに言うの苦手で、それをnoteで克服中な私は、凄いな~!!と思いました。
今書くのもおかしいと思うけど、私は女性で、MBTIはINFJなんですが、現実ってINFJの女性とENTPの女性って上手くいかないことが多いのでは?と思いました。ENTPの素直で嘘がないところが、INFJからしたら自分が欲しいと思っている技術をさらりと使うから、羨ましく感じる。羨ましいって気持ちは持ち続けるのしんどいと思うし、加えて、INFJからはENTPがINFJに憧れたり、凄いなって思ったりすることもないように感じて、一方的に羨ましいと感じるのが辛くなるんじゃないかな。自分の足らない部分を指摘されているみたいで。INFJというか私だけかもしれません。
こういうところも、結局少人数でしか関われない自分って、、、と卑屈な気持ちになっちゃうときもあると思う。みんなと平等に仲良くしたいと思うけど、そう思っておきながら、ひとにめちゃくちゃ厳しい。仲良くいられないのって嫌だなと思ったことを、注意したり、話し合ったりできなくて、フェードアウトやいわゆるドアスラムをしちゃうからな。。仲間外れにされてきて傷ついたから、仲間外れはしないけど、逆に自ら輪を出てしまう。
3人以上で、私以外で盛り上がってると私いらないな、と思うし、輪に入れてないひとを輪に入れて、それでみんなが盛り上がってきて私のアシストいらないなって思ったら、会話抜けたくなる。やることやった!一仕事したわ!あとはどうぞ楽しんで!って感じ。こういうときは傷つかないけど、些細な私の気遣いに気づいたひとが誰もいないことには、ちょっとショック受けるときもある。3人以上の会話で気を遣わないの相当親しくて、相当互いを知っていないと無理だから疲れて会話抜けるな。。
だから、大人数で仲良くしたいENTPと、友達なら1対1で話したいし、仲のいい相手には優先してほしいと思ってしまう私(これをINFJのせいにするには他のINFJのひとに失礼な気がする)は現実では親しくなりにくいのでは?と思いました!
このことについては、ぎくりとしました。まだ親しくないですが、こういうときは縁がなかったと思ってください。。。自分が他のひとにこう思われてる可能性があるので、罪滅ぼしに書きたくなって。。。
まとめ
自分もそういえば対人関係続かないな~と我に返った
まともなひとほど友達少ないという論こそがむしろ友達です!
酔っ払いの言うことは真に受けない
内輪ノリってひとを選ぶ
人様のnoteを引用して、飛躍した話を展開し、8600字も書いてしまいました。こういうのも良いかな~と私は思いました!気が向いたら、フォロワーさんのnoteを引用して、便乗して愚痴を書いたり、称賛したりする企画とかやろうかなと思ってます、、!
最後まで読んでくれてありがとうございました!
またnoteでお会いしましょう!
チップとしてサポートしてもらえると嬉しいです!