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短編小説 「名付ける」

朝食は無難に済ませたい。
1日の始まりに挑戦をしてしまうと労力を使う上に失敗すると後に引き摺る。
今日は昨日スーパーで買っておいたマーガリン入りのレーズンパンと簡単なサラダにオレンジジュース。
レーズンパンはそのままでも美味しいが、温めると尚良し。
しかし、トースターで焼くとすぐに焦げてしまうので電子レンジで15秒程温めるのが良い。
表面がシナっとしてしまうが、焦げるよりはマシだ。
朝食は無難に済ませたい。

今朝のエマは一段と乱れていた。
「だから、シワが伸びてないの!このブラウスじゃないとダメなの!」
昨日の晩は彼女が洗濯物を干して、僕は食器洗いをしていた。
翌朝、食器に水垢がついているとこのようなヒステリックを起こすので念入りに乾拭きしておいた。
その甲斐あって僕に対しては不満がなかったようだが、自分に対する怒りをぶち撒けている。
こうなってしまうと原因などどうでも良い。
その矛先はいづれ僕にも向くことになるからだ。
「タク君、今笑ったよね!?あたしが困ってるのがそんなに面白いの!?今日のプレゼンがどれだけ大事か何回も言ったよね!?」
いつものこと。
勿論くすりともしていない。
「ひものクセに偉そうなんだよ!!役立たず!!」
空になったコップを床に叩き付けた。
これもいつもことだ。
朝食を食べ終えるまでは穏やかであったため、今日はそのまま出勤してくれるかと思ったが甘かった。
以前、彼女がグラスを投げてガラスの破片が散乱して大変だったことがある。
人間は学習する。
それ以来、朝食のドリンクはプラスチック製のものに注ぐと決めている。
しかし、【ひも】と言われるのは結構辛い。
実際には僕も仕事をしているが収入は彼女の半分程度。
家事全般は僕がやる代わりに家賃は彼女が出してくれている。
エマは所謂キャリアウーマンで、僕と同じ28歳でありながら部下を従える管理職者だ。
何度か彼女の同僚と食事をしたことがあるが、エマの評判はすこぶる良いようで「理想的な上司」であり「信頼される部下」でもあるらしい。

彼女はブラウスのしわを隠すために薄手の黄色いカーディガンを羽織ることにした。
ようやく心が落ち着いたらしく、僕に擦り寄ってくる。
「たく君さっきはごめんね。ずっと一緒にいてね。」
この豹変ぶりには驚かされる。
僕は彼女を抱きしめて、床に落ちたコップを足で蹴飛ばしてエマの死角に追いやった。
彼女の罪悪感を軽減させるためだ。
エマは何度も僕に謝りながら仕事に向かった。
見送ったその背中は凛としていて、颯爽と歩いて行く様はまさにキャリアウーマンであった。

今から50分間が僕の時間だ。
ケトルでお湯を沸かしインスタントコーヒーを入れて出勤前に一息付いていると、僕の声が無意識に漏れていた。
「もう無理だ。」
エマの躁鬱が激しくなったのは彼女が昇進して今の管理職に就いた時から。
ちょうど1年前だ。
ベンチャー企業の出世は大手に比べて格段に早いが、彼女の場合は経験値が追い付かずに心に負担がかかっているように思えた。
物を壊すだけなら掃除して買い直せば良いのだが、買って来たインコを翌日外に逃がしたこともあった。
「存在するだけで腹が立つ」と言った翌朝には「あの子が元気に過ごしているのかな」と不安げに僕に訴えて来た。
そんなインコを見て僕は羨ましいと思った。
しかし、彼女が【ひも】と罵る通り僕の収入で一人暮らしは厳しい。
家賃を払ってもらう代償にこのモラハラに受けるもの仕方が在るまい。
僕が愛したエマはさっき見送った凛とした背中の格好良い女性だ。
家の中で本当のエマに会える時間は僅かしかない。

珈琲の最後の一口を啜った。
香りが薄く苦味と酸味しかない。

家を出るまであと15分。
僕はあることを思い付いた。
「僕が愛しているエマだけを愛そう。」
そして、僕が嫌いな暴力的な彼女には別の名前をつけることに決めた。
「サディストだからサチで良いや。」
名前は何でも良かった。
たった数分間で考えただけのくだらないアイディア。
それがどのように作用するかは分からなかったが、とにかく僕が愛したエマと暴力的なあいつを切り離したかったのだ。
僕は身支度を済ませて仕事に向かった。
いつも通りの情けない背中で。

あれから2週間が経った。
僕達は良好な関係を築け始めている。
サチから逃げてはいけないことが分かった。
サチは精神的に追い詰められた時に現れるので実は打たれ弱い性格なのだ。
強く口調に対して屈せず正論で言い返す。
ぐうの音も出なくなる彼女を見ると支配欲が満たされた。
エマがエマでいる時間が長くなった。
彼女は明るく知的で無邪気な笑顔で僕を接してくれる。
エマと過ごす時間は僕の心を癒して仕事の辛さも自分の劣等感も忘れさせてくれる。
僕が愛しているのはエマだけだ。
サチに対しては無感情で対処しているに過ぎない。

さらに2ヶ月、この生活を続けていると思い掛け無い副産物が生まれた。
僕の仕事が円滑に回り始めたのだ。
最初は自分でも分からなかったのだが、どうやらサチとの生活の中でマルチタスクが身に付いたようだ。
顔を合わすだけで萎縮していた上司にも自分の意見を言えるようになっているし、後輩からも助けを求められるようになった。
社内での【役立たず】のレッテルは次第に剥がれて、色々な仕事を任されるようになった。
難しい案件にも積極的に挑戦するうちに失敗を恐れなくなって行った。
全ては良い方向に向かっていた。

そして何ヶ月かが経った。
僕は物忘れが多くなった。
人に言われたことを忘れてしまうだけでなく、自分がしたことすら覚えていないこともしばしば。
驚くことにそれは悪いようには働いていなかった。
いつ任されたか分からない仕事がいつの間にか終わっていて、身に覚えのない称賛受けている。
「まったく、何惚けているんだよ。」
僕の背中と叩く上司の顔はいつも満面の笑みだ。
依然として僕とエマ達は上手くやっているはずだ。
サチは姿を現さなくなっていた。
エマは嬉しそうに先日のデートについて話してくれるが、そんな所に行った覚えはない。
しかし、浮気の匂いは一切しないため多分僕が忘れているだけなのだろう。
とにかく時間があっと言うまに過ぎる。
いつ寝たのか、いつ食事を済ませたのかも思い出せない程に。

もう何ヶ月経ったのか。
もしかすると数年経ったのかも知れない。
僕の記憶は断片的にしか残っていない。
知らないうちに事が良い方向に進むというマジックは起こらなくなった。
エマとの生活も大きく乱れ始めていた。
ふと家の周りを見渡すと割れた食器や衣服が散乱しており、エマが泣き崩れていたりする。
僕が優しい声で「どうしたの?」と尋ねると
「はっ!?あんたどう言うつもりなの!?」
と叫びながらエマはサチに入れ替わる。
すると、僕の記憶はそこで途絶える。
仕事でもトラブルばかりだ。
朝出勤すると同僚が僕を白い目で見る。
目が合うと焦った様子で視線を外しまるで僕が存在していないように振る舞い始める。
小声ながらも僕の陰口があちこちで聞こえてくる。
上司からは「ノコノコと良く出てこれたな!」と怒鳴られる。
すると、僕の記憶はそこで途絶える。
視界がぼやけて数秒間かけてじんわりと暗くなって消えていく。
微かに聴こえる怒号は自分の声のようにも思えた。

もう何も分からなくなっていた。
足のふみ場がない程に散らかった部屋。
僕は食事も睡眠もとった覚えがないのに健康そのものだ。
多分僕は仕事にも行っていない。
この部屋から出た覚えすらない。
あれからどれだけの月日が経ったのか分からないが、エマはいつも泣いていた。
僕はそんなエマを見ていると抱きしめたくなる。
しかし、彼女はどうしてもそれを許さなかった。
怯えながら「もう殴らないで」と擦り切れた喉で叫ぶばかり。
僕の拳は赤く擦り切れている。
一体何が起こっているのか?
僕はエマとの関係を終わらせたいと思った。

すると、

「俺に任せないか?」
何かが聞こえた。
「辛いだろ?全部俺に任せないか?」
エマの泣き声がかき消される程の大きい声が頭の中で響き渡った。
僕は彼に任せることにした。

数分の間なのか数時間なのか、もしかすると数日が経っているのかも知れない。
僕が僕に戻ると部屋が赤くなっていた。
多分そこに倒れているのはエマなんだろう。
僕はケトルでお湯を沸かした。
以前のようにインスタントコーヒーを飲みながら辺りを見渡し、冷静に現状の把握をした。
「もう無理だ。」
この管理社会でどこ隠れても見つからない訳がない。
これだけ派手にやってしまったなら尚更だ。
考えた末にあることを思い付いた。
この精神状態であればそれが容易に叶うことを経験から学んでいた。
名前は何でも良かった。
たった数分間で考えただけであったが効果的なアイディア。

珈琲の最後の一口を啜った。
血生臭さが強く苦味と酸味しかない。

翌日、各メディアはこの事件について大きく取り上げました。
『昨日未明、〇〇県〇〇市に交番に「人を殺した」と30歳の男性が出頭しました。会社員のミチシタ タクミ容疑者は同棲中の交際相手である30歳の女性 ササタニ エマさんの顔面などを複数回刺し殺害した疑いを持たれています。女性は搬送先の病院で死亡が確認されました。
ミチシタ容疑者は犯行を認めているものの、「本当はサチを殺したかったそうです。」「タクミとあの男は卑怯者なので逃げました。」「私は先ほどエイタと名付けられました。」など不可解な発言が多いため余罪や共犯者がいると見て取り調べが続いています。』


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