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短編小説 「たよりない息子」

18時40分。
駅前の時計台。
この時計台は3メートルに満たない物で柱は黒く、文字盤は赤く光っている。
昼間にはそこに座り込むホームレスが常駐しているがこの時間になれば大体何処かに消えている。
ぼおっと光る赤が不気味でならない。
今日はマッチングアプリで知り合った女性と初めて会うのだ。
待ち合わせ場所を考えた時に、一番に思い付くのはいつも自分が嫌いな所。
良いものよりも悪いものの印象の方が僕には強く残る。
待ち合わせの時間は19時ちょうど。
早く着いたのは緊張のためでもなくレディーファーストな精神でもない。
母親にそうやって厳しく教え込まれただけだ。
忘れたくても体が覚えてしまっている。
そんな自分がどうしても好きになれないのだ。

18時55分。
バーバリーのトレンチコートにヒールのない黒いパンプスを履いたOL風の女性がやって来た。
そのコートと高い位置で括ったロングヘアが目印だったので今日のデート相手であることはすぐに分かった。
年は僕よりも8歳上だと知っていたので、その人に見合う格好をして来たつもりだったが去年成人を迎えたばかりの僕にはどう見ても不釣り合いな格好良い女性だった。
用意していた挨拶とお世辞を言おうとしたが彼女はその隙を与えてくれなかった。
「〇〇君だよね。初めまして、私〇〇。予約してくれてた居酒屋ってすぐそこだよね?連れてってよ」
僕は年上の女性に自分の意見を言い難い。
こうやってイニシアチブを取られる方が性格には合っているが、そんな自分が嫌いだ。
居酒屋に着くまでの間、僕はほとんど話せなかった。
この店は過去に職場の上司に連れて行ってもらった事がある。
活気のあるスペインバルで、上司曰くここのワインは低価格で良質らしい。
大人の女性とのデートならこのような店が良いのではないか?
僕自身はアルコールが苦手なのでグラスワイン1杯を飲み干すのがやっとなのに。

19時3分。
以前来た時にはカウンターもテーブル席も埋まっていたため活気があるように思えたが、今日は僕たちの他に一組のカップルと女子会をしている四人組がいるだけだった。
誤算だった。
会話下手な僕にとって静寂は恐怖なのだ。
発した声が紛れるぐらいの雑音で空間が溢れている方が、僕はちゃんと言葉を口にすることが出来る。
僕は矛盾ばかりで一番信用出来ない奴だ。
店員は少し照明の暗い窓際のテーブルに案内した。
席に着くと僕は改めて用意していた挨拶とお世辞を彼女に言った。
「ありがとう。おばさんだと思われてたらどうしようかと心配だったの。」
彼女はハニカムことなく素直な笑顔を見せてくれた。
無論、「とても綺麗な方なので緊張してます」は会う前に用意していた言葉なのでどんな人が来ていても言っていたべんちゃらだ。
でも、彼女は本当に美しく機敏で僕にとって理想的な女性像であったためその言葉には思いを乗せることが出来た。
メニューを開く彼女の指のしなやかさに目を奪われていると、「私は明日も早いからソフトドリンクにするね。〇〇君は?」と投げかけられた。
彼女に「ワインが美味しいお店」と会う前に紹介してしまった手前ソフトドリンクに逃げるわけにもいかず、僕はハウスワインをグラスで注文することになった。
彼女はドリンクと簡単なつまみをオーダーしてくれた。

19時19分。
僕たちはバレンシアオレンジジュースと赤ワインで乾杯した。
彼女には聞きたいことが沢山あった。
でも、聞くためにはまずこの緊張をほぐさずにはどうすることも出来ない。
年上の女性には特に顔色を伺いながら話してしまう。
強い女性には人一倍苦手意識があるにも関わらず、潜在意識の中でそのような人を求めてしまっている。
恐怖とエロチシズムが僕の脳内に彫られているらしく、この世から消えてしまいたくなる。
飲めないはずのワインを僕は水のように飲み干した。
「お酒が好きなのね。同じので良い?」と彼女は聞いた。
無意識のままにそれを了承してしまい、2杯目のワインがテーブルに届いてしまった。
アルコールのおかげで緊張はほぐれ自分の声がよく通るようになったことに気付く。
しかし、それと同時に彼女からの質問攻めが始まった。
質問に答えるうちにアルコールが回り始めて自分でも何を聞かれているのか何を話しているのか良く分からなくなっていた。
彼女は丁寧に聞いてくれているようだったが、

「あなたは誰?」
「あなたは誰?」
「あなたは誰?」

こう聞かれているようにしか思えなかった。
目の行き届く彼女はグラスが空く前にワインを頼んでくれる。
僕は話し過ぎてしまったようだ。

母子家庭に育ったこと、
母は厳しい人だったこと、
母は丁寧な口調で僕を叱責すること、
母は暴力で僕を正すこと、
母は僕に息子として以外の愛情を持っていたこと、
高校卒業後は母から逃げるためにこの土地で就職したこと、、、、

「大変だったね。話してくれてありがとう。」
彼女は全てを受け入れるようにそう言った。
僕はその言葉で我に返った。
流れる涙をそのままに、僕は彼女の手を握ってしまった。
愛を打ち明けるにはあまりにも時間が早過ぎたが自分では抑えることが出来なかった。
しかし、その衝動を抑えてくれたのも彼女だった。
「その前に私のこともちゃんと知って欲しい。場所を変えない?」
僕はもう彼女には服従だった。

20時32分。
お会計を済ませると彼女の言う通りに歩いた。
いつもならこの量のアルコールを摂取すればまともに歩くことは出来ない。
しかし、今日は彼女がいる。
僕は彼女の全てを受け入れる準備が整っていたため店を出る前の彼女の言葉には何も不安を感じていなかった。
着いたのは待ち合わせ場所の時計台だった。
赤い光の下で彼女はコートを脱ぎ、背中を向けた。
「ブラウスの襟を引っ張って背中を見て欲しいの。」
僕は言う通りに動いた。
彼女の背中には立派な観音様が彫られていたのだ。
ファッション感覚のタトゥーではないことは一目で分かった。
ほんの数秒の間であったが色んな考えや可能性が頭に浮かび続けた。
恐怖心から逃げるべく、脳は思考を完全に止めて一丁前に背伸びした僕の下半身に正常になるように命じた。
「良いのよ。ありがとう。」
彼女は微笑みとともに立ち去った。
これ以上踏み込んではいけない女性に恋心を抱いてしまったのだ。
しばらく何も出来ずに僕は立ち尽くしていた。
抑えきれない感情と吐き気に襲われて、僕は時計台の下に座り込んで咽び泣きながら胃の中の物を全てぶちまけた。
このゲロの色はワインの色なのか文字盤の光なのか?

21時23分。
私は依頼人の息子さんとの会話を録音したボイスレコーダーを確認しながら帰宅した。
仕事とは言え、年下の男性から奢られるのはどうしても癪だったため居酒屋ではあまり飲み食いをしなかった。
トレンチコートを脱ぎ捨てて、今朝脱ぎっぱなしにしてダイニングの椅子に掛けてあったルームウェアに着替えた。
ケトルに入ったままだった水を流しに捨てて入れ直す。
深夜に食べるカップ麺は背徳感があり止められない。
この仕事を始めてから様々な依頼を受けてきたが今回が一番報告に困る内容だった。
ドラマやアニメで見る殺人事件を解決するような探偵は現実世界ではあり得ない。
あれは警察の仕事であって私のところにくるのは浮気調査が主であったが、最近になって今回のような依頼が増えてきた。
【最近連絡のない息子、娘の様子を詳しく見てきて欲しい】と言ったものだ。
「便りがないのは良い便りって言うだろうが」と独り言を言いながらまだ2分も経っていないカップ麺の蓋を剥ぎ取った。
女の子の場合は慎重に尾行をして情報を得るが、成人男性の場合はマッチングアプリで急接近すれば仕事が早く済む。

「しかし、どうしたものか?」

今回依頼してきた女性からは息子さんに関して明確に知りたい情報を提示されていたにも関わらず、何一つ聞き出すことが出来なかった。
彼の口から出てきたのは依頼人から受けた虐待についてばかりだった。
今思えば【息子の性癖も調べて欲しい】なんていう母親はやはり可笑しい。
依頼人にこの音声をそのまま聞かせれば私の身までが危険に晒されるかも知れない。
「あの男も取り乱しすぎなんだよ。」

22時6分。
私は護身用に貼った背中のシールを剥がすため消毒用エタノールを持って風呂場へ向かった。

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