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感情を安定させるには、自分なりの定義を仮決めすればいい。

ある方からいただいた自己分析シートに取り組んでいるのだが、すらすらかける所と、書けないところがあり、書けないところは何があるのだろう?と考えた。

なかなか答えが書けなかったコトバの一つは、「幸せとは」である。自分にとっての幸せを言葉に出来るだろうか。私は正直なところ、自信を持ってこれが幸せだと言い切れるかどうかはあいまいである。なぜなら多様な考え方を吸収して、「これが私にとっての幸せだ!」と言い切ることは、かっこいいな~と思う一方で「ほかの幸せを知ろうとしないなんてもったいない」などと考えていたふしがあったから。自分にとっての幸せがこれだ!と言い切ることが怖いからだ。

しかし、最近自己分析をすすめていくうえで、自分にとってあいまいにしたまま使っていた言葉の定義の多さに愕然としている。
楽しいとは?好きとは?安心とは?考えてみるとどれもふわっとした答えしか浮かんでこない。これらを考える(自分なりに定義づける)ことなくここまで生きてきてしまった。いや、厳密には考えるタイミングは何度ももあったのに、のらりくらりと避けてきてしまった。

それをまたしても目の当たりにしたのは、先日の友人のAちゃん(コーチ仲間の)との対話のなかで、「こーみぃちゃんにとってどうなったら幸せなの?」と聞かれたときだ。どうなったら幸せなのか。今から未来に向けて、こうなったらいいな、と想像しているものをただ声帯を震わせて、ことばにして話せばいいいのだけど、私にはそれができない。

考えている間、頭の中は、「今だって結構、いやかなり幸せなのに、これ以上何を望むというのだろう。」大きなお城のような家に住みたいわけでもない、家族も健康でパートナーシップも良好だ(今のところ)、実家の両親たちとも程よい距離感で付き合えている。友人にもめぐまれ、声を掛けたら一緒にお茶が出来る間柄である。傍目から見て十分幸せな状態なのに、これ以上何を望むのか、と何度も言われてきた。その度にスカートの裾をぎゅっと握りしめ、先人たちの言葉を聞いていた。

だけど、今の生活に満足していると話している自分の中にくすぶった様な気持ちがあるのも本当だ。口では幸せだといいながらも、毎日家族の食事の支度をしているときや、時間を気にせず読書にふける時間が持てないときもやもやすることはたびたびある。「私は、飯炊きばばぁになるためにここに居るのだろうか」とか「ゆっくり本を読める日はいつ来るんだろう」と思ってしまい、脳内でため息交じりの悪態をついてしまう。だから「幸せとは?」と問われても言いよどんでしまうのだろう。

話を最初に戻すと、これらは全て自分の中の「幸せ」の定義を見つけていなかったからだ、と気づいたのである。幸せだな、と、幸せじゃない、の間を行ったり来たりしている事自体は全然悪いと思わない。でも、行ったり来たりしているからしんどいのだ。
私たちの環境は日々そんなに大きく変わらないのに、そのときどきで出会う情報は様々だ。携帯を開けば、いとも簡単に片田舎で過ごしていたらお目にかかれないようなきらびやかな経歴や活動をしている人の生活の一部(ほんの一部!!!!)を見てしまっては、自分と比べてしまったりする。(私だけだろうけど。)

だからこそ、自分自身の立ち位置を、仮でもいいから決めることが大事なんだ。自分が幸せだと思ったら、幸せ。幸せじゃない!と思ったらそれもそれでOK。いったん決めるからスタートラインに立てる。全てが最初から完璧じゃなくていい。より良いアイディアがあればその都度、検討して取り入れたらいいのだ。その方が楽しそうじゃないか。ここで大事なのは一度決めたからと言って、一生持ち続けなくてもよいと言う事。定義は仮決めだから、違和感を感じたり、熱望する何かを見つけたときは更新できるということをわすれないでおきたい。


では現時点での私にとっての幸せを仮決めしておこう。
家族や私自身の心身が健康であり、自由に新幹線に乗って会いたい人に会いに行ったり、美味しい食事を美味しいと感じられること、私と関わっている人の更にその周りの人も幸せであることだ。身近な人の困ったな、を同じ目線で捉え、その綻びに対して私には何ができるだろう?と考え、問いかける心の余白を持ち続けていけることである。(仮)

お読みいただき、ありがとうございました。私が学んだことや失敗、気づきなどについて綴っています。等身大の様子をお届けしていていくことで、誰かの「私もやってみようかな」のサポートになれたら幸いです。こーみぃ、がんばれ!のサポートもとても嬉しいです。