思えば、この世界はもう1980年代から終わっていたのかもしれない。生が生として認められず、ただ活かされる肉にされる。真っ当に過ごし、真っ当な人間のみが生きることを認められ、非道徳な人間は活きることを強いられる。体制も反体制も「医者」としか形容できない権威に媚びへつらい、近代が力づくで獲得してきた「自由」そのものすら放棄した。日本で言うならば、自由民主党は私的自治の「自由」を廃棄し民主的な政党となり、社会党は個人の「自由」を放棄して民主党となってしまっている。 私たち自由
2019年からつづく一種の狂気、もしくは燔祭。私はそれにたいして最初、熱狂していた。元来、カトリシズムを浴びせられて育ってきたこともあり、学校の卒業式のような高揚感も何もないただの感動のための芝居ごっこは大嫌いだったが、ミサのようなある種の怪しさにも似た団結感、統一感を生み出す「お祭り」はとても好きな質である。 思えば、この狂気は1995年、2011年などにも見られた現象であった。単なる自然現象や大量殺人にたまたま出会い、殺されたに過ぎない人々を過度に称賛し、その「大量
午前中にこんな記事を投稿した。 この話自体は数理として分析された話なので、ある一種、良識的なものである。ここから一歩、より領域横断的な政策に進んだ方向の仮説として、世界経済の政治的トリレンマというものがある。ハーバード大学教授、ダニ・ロドリック氏が2008年に自身のブログ内で提唱したものである。 この話の骨子は上記と同様で、3つの政策のうち2つは採用できるが、残り1つは採用できないというものである。その3つの政策が下記である。 ①国際経済統合 ②国家主権(通貨自
みなさんは国際金融トリレンマというものを知っているだろうか。国家公務員試験を受けた方ならご存知のマンデルフレミングモデルを金融政策にまで拡張させたもので、下記の政策のうち2つは同時に採用できるが、残り1つは採用できないというものである。 ①自由な資本移動 ②為替相場の安定した運用 ③独立した金融政策 自由な資本移動と為替相場の安定した運用を選択すれば、国家は国際経済に合わせた金融政策を取らざるをえなくなり(通貨発行権の実質的な喪失)、無制限の金融緩和や大規模な財政
アメリカには、11のネーションがある。そんな煽り文句で合衆国内部の文化のぶつかり合いを取り上げた本があった。この話を聞いて、多くの日本人は「アメリカは民族のサラダボウルって呼ばれてるし、国土も広いからそんなことになるんだろうなあ」と思うかもしれない。 しかし、私が日本各地を旅行したり、各地の社会情勢を見ていくなかで、日本でも同様のことが起きているということを確信している。日本人の半分くらいは日本を狭い国だと思っているが、日本の国土面積は世界232ヶ国中第62位とそこそこ
帝都から飛行機で2時間、空港からバスで1時間。バスに揺られる間に広がる光景は牧草地と原野、少しばかりの畑だけ。僕が豊原という孤島にたどり着くまでずっとこの連続である。原野、牧草地、林、牧草地、牧草地、畑、家……といった具合だ。この土地(南樺太)をロシアから奪って、約1世紀、日本人はこの土地に稲作を定着させる努力をしてきたが、どうやらすべて失敗してきたようだ。目の前に広がっていた光景はまさしく僕のイメージする北海地方そのものだった。 豊原は思ったよりも都会だった。まあ、8
僕は、この世界に嫌気が指していた。このどこまでも狂気と統制に満ちた世界に。だから、僕は人為が支配していない場所に、日本という帝国の辺境に逃れたのだ。 そもそも、僕の生まれは北海道の、いや今は旭川県というのか、そこにある日本海に面した町の小さな写真館だ。その古ぼけた和洋折衷の建築のなかで、昭和16年11月23日に産声を上げた。当時はちょうど亜細亜主義と神国思想が絶頂に達していた時期で、ちょうど新嘗祭の時期に生まれた僕は、あの寒々しい時期に似合わない「穣(みのる)」という名