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豊原にて

 帝都から飛行機で2時間、空港からバスで1時間。バスに揺られる間に広がる光景は牧草地と原野、少しばかりの畑だけ。僕が豊原という孤島にたどり着くまでずっとこの連続である。原野、牧草地、林、牧草地、牧草地、畑、家……といった具合だ。この土地(南樺太)をロシアから奪って、約1世紀、日本人はこの土地に稲作を定着させる努力をしてきたが、どうやらすべて失敗してきたようだ。目の前に広がっていた光景はまさしく僕のイメージする北海地方そのものだった。

 豊原は思ったよりも都会だった。まあ、80万人の人口がクレープなみに薄く広がっている樺太のなかでも、随一に豊かで30万人弱の人口がいるんだから当然かもしれない。僕がそんなイオンか、飲み屋しか娯楽がない街に来た目的は、仕事である。僕の仕事は国家公務員、国防省大臣官房監査課で国防部員として働いている。今日は豊原国防役務本部と豊原国防支局の職員に輪番で回ってくるコンプライアンス講習を行うために、わざわざ市ヶ谷からここまで足を伸ばしてきたのである。

 豊原役本は神宮通と大通の交差点にある大きな商業ビルの1階に入居していた。どうやらこのビル、元々は丸井今井がいたらしくここ十年の不況で撤退したとか――。それにしても駅前から大通までの目ぬき通りにロクな店がない。さみしすぎて頭がクラクラするレベルだ。一応、駅前にはウラジミロフカ百貨店と三越が残っていたが、正直ゴーストタウンそのものだ。帝国の地方都市というのはだいたいこういうものなのだろうか。

 役本の本部長と副本にご挨拶をする。どうやら話を聞くと、大沢の駅前にイオンができたらしく、客の大半はそちらに取られているとか。志願兵及び曹候補生、将校候補生の獲得のために、そちらに役本を移す予定でもあるらしい――地方特有の採用計画達成の難しさを感じた。そして、彼らにとって本業である国防役務そのものについても、役務検査に出頭してくれる若者の絶対数が減少していて、必要数の確保に苦労しているとか。やはり50万人体制の維持そのものが厳しいのではないかと足らぬ頭を回しながら考える。国防役務法の1号欠格者(世帯主)、2号欠格者(妊娠者や主婦)はやはり少なく、3号欠格者、つまり大学程度の教育機関への進学者が検査辞退の過半らしい。

 そんなことは置いといて、使い勝手の悪いヒラ部員は淡々と国軍軍官と国防事務官たちにコンプライアンスの重要性についてありがたいお話をとつとつと1時間お話しした。こんな話を聞いている人なんて一人もいないんだろう。講演後、本部長と副本から飲み会のお誘い。二つ返事で了承した。年に1、2回の東京からのお客人のために頑張って準備してくれたのだから、受けるしかあるまい。

 樺太料理の名店らしく、ロシア料理の一つ、ペリメニやらボルシチやらピロシキやら聞きなれた料理も、聞きなれない料理も食わせてくれた。どの料理も酪農・漁業が主体の地域らしく、肉と魚は非常に美味だった。ただショットでもウォッカの一気飲みを連発するロシア流の飲み会は地獄になるので止めてほしい。陸軍軍官の本部長が00年代の雪解けの時期に、ロシア側の国境警備隊長と融和を深めるためによくやっていたとのこと。あれは人を潰すための呑み方に他ならない。

 次の日は、僕は頭痛をおともに樺太庁の裏にある合同庁舎に向かった。こちらには豊原国防支局がある。旧称:豊原国防施設支局。冷戦時代の紛れもない遺物であり、対米協力のために提供する施設を建設するために必要な地方協力の根幹である。なお、実態は地元問題・米軍問題という政治家も軍官も内局も触れたくない残務処理のための汚れ役である。ここは2000年代に散々やらかしているので講演にも熱が入る。ちょっと本気でしゃべりすぎたのか鼻で笑われてしまった。支局長は如何にも施設庁系のインテリヤクザみたいな人、次長は叩き上げのベテランさんといったところ。丁重に赤絨毯でフレップジャムのロシアンティーもてなしてくれた。

 豊原国防支局には、今日で帰る旨を伝えているからあっさりと解放してくれた。だいたいこれでいいのだ。出先の人たちは中央から人が来るってだけですぐに臨戦態勢に入ってしまう。有事対応じゃないんだから、もっと肩の力を抜いて対応してほしいものだ。そんなことを思いながら、徒歩で豊原の街を歩く。官用車でのお出迎え、お見送りは丁重にお断りした。この街はやはりどこか欧州的で、どこか日本的である。豊原庁博物館の帝冠建築がその雰囲気をより強調してくれる。この雰囲気は好きだが、やはり住みたくはない。

 16時過ぎになるとあたりはもう真っ暗になる。これでも日が沈むのが遅くなったというのだから驚きだ。駅前のバスターミナルから落合空港行きの急行便に乗り込む。バスはどんどんスピードを上げて、市街地を後にする。そして、遠く街明かりが輝くのを目にしながら、やはり北海地方の都市は小宇宙なんだなと思っていた。

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