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イデオロギーのトリレンマ

 午前中にこんな記事を投稿した。

 この話自体は数理として分析された話なので、ある一種、良識的なものである。ここから一歩、より領域横断的な政策に進んだ方向の仮説として、世界経済の政治的トリレンマというものがある。ハーバード大学教授、ダニ・ロドリック氏が2008年に自身のブログ内で提唱したものである。

 この話の骨子は上記と同様で、3つの政策のうち2つは採用できるが、残り1つは採用できないというものである。その3つの政策が下記である。

①国際経済統合

②国家主権(通貨自主権)

③民主政治による統制

 欧州のような民主政治による統制をもとにした国際経済統合を目指せば、一部の強国を除いた国家主権(通貨自主権)は失われ、ギリシャのように経済的な苦境に立たされる国が出現する。ネオリベラリズム(新自由主義)は勘違いされがちだが、上記のような国際経済統合を目指す思想であり、民主的かつ最小に構築されたルール(規制)を何よりも重視する。代わりに通貨自主権にはかなり甘い見方をする。

 中国のように、国家主権(通貨自主権)を保持したままで国際経済統合を目指す方向に動けば、民主政治による統制はほぼ不可能になる。シンガポールなどの開発独裁も同様ではあるが、実質的に経済政策を決定するのは一部の優秀な経済官僚である。こちらは容易に想像できるが、縁故資本主義となり、一部の利益のために国益が弑される事態が発生する。

 最後が、1998年まで日本が採用していた国家主権(通貨自主権)と民主政治による統制をもとにした護送船団方式である。利益代表者たる議員が規制官庁が作り出すルールに積極的に関与し、経済官僚の多くは中間層であり、中間層の利益を失わないように配慮する。その結果、平準化された豊かな国家が成立する。

 現在の世界の大部分は上記の二つが主流である。しかし、この3つの政策における思想はそのまま経済学におけるシカゴ派経済学、縁故資本主義、ケインズ主義をそのまま反映しており、蓋然性は高い寓話であると考える。

 しかし、ここで話を終わらせるのは勿体ない。国際金融のトリレンマは世界経済の政治的トリレンマにまで拡張できたのならば、より中枢的な国家・社会観にまで拡張することが可能である。あくまで一つの想定には過ぎないが、私は下記の三つのイデオロギーはトリレンマに陥っていると主張したい。

①資本主義(私有財産・殖産の容認)

②国家主義(国家への帰属意識)

③自由主義(個人の自由権の最大化)

 資本主義と自由主義の二つを採用するの者は古典的自由主義者である。彼らは国民国家を否定し、資本家による市民社会の建設を目指している。人は資本主義の世界で多くを儲け、更に豊かになることで個人として自立し、自活できると考えている。

 そのもっとも過激な形態は加速主義である。加速主義はニック・ランドなどの90年代のイギリス社会思想家が創設した思想である。資本主義の破壊的創造(彼らはドゥールズ/ガタリの思想を引用して「脱領土化」と呼んでいる)のプロセスを極限まで進めることで、現在の腐敗した世界から脱出(Exit)し、超人によるユートピアを造れると主張している。

 この思想に共鳴する人々はアングロ・サクソン系の成功した資本家に多い。そして、彼らが想定するユートピア、有り体の概念でいえばサイバーパンクにおける巨大企業である。企業が国民国家の有していた領域のすべてを有し、世界中は国家によってミクロネーションが築かれる。人々は株式を購入することでその企業に属する権利を獲得し、経営に参画することで生活を営むことができる。このようなものである。

 次に、国家主義と資本主義の二つを採用する者は国家資本主義者である。国家社会主義とも全体主義とも福祉国家とも呼ばれ、日本もこの一連の枠の中に入っている。国家主義と資本主義の濃淡によって様変わりするグループではあるが、おおむね国家による資本の保護を重視し、国営企業に近しい経営理念を是とする(自分もその一派ではある)。

 国家主義の色彩が強い人々は、歴史的な経緯から主にネオボリシェヴィキとネオファシストに分かれる。中国共産党はネオボリシェヴィキの一派であり、人民による私有財産を認めないながらも、国家の価値となるエリートが資本を増殖することを是認する傾向にある。ネオファシストは国民連合やフィデス等のナショナリスト色が強い資本主義を容認するグループである。分厚い中間層の復活を主張する声が多い。

 資本主義の色彩が強い人々は、現代政治の中心に位置するグループである。古臭い金権政治家や市民活動家上がりの胡乱な奴を思い浮かべていただければ、日本においてはだいたい間違いはない。基本的に、現代の国内政治はマイルドな国家資本主義を掲げる一派とマイルドな古典的自由主義者を掲げる一派による闘争である。

 最後の一派は国家主義と自由主義を掲げる人々で何とも掲揚しがたい一派である。日本において、一部はエリートによる独裁(アジア主義)に走り、別の一部はアナーキストとなり、また別の一部は左派加速主義を自称したりしている。このような乱雑さは人間の定義が異なるからである。

 人間は紛れもなく自由権の行使者ではあるが、歴史上、人間が明確に定義されることはなかった。ある者は人間を白人と呼び、苦痛を感じる動物をすべて人間と定義するグループもいる。このように行使者の定義が異なれば、国家主義と自由主義のバランスのとり方も異なる。

 このように、現代の政治思想をざっくりと3つに分類したわけである。なかなかにいい分析ではないかと考えているが、重要なのはこれから社会の趨勢はどのようになっていくかである。

 私はこれからの時代において、国家主義は相対的に縮小すると考えている。そもそも、近代国民国家は社会契約説から立ち現れてきた虚構であり、国際経済統合の進行による国民としての連帯感が失われつつある今、その地位を相対的に低下させている。なお、これ以前に国家主義の位置にあった思想は教権主義であった。

 では、これからの社会はどのような方向に進んでいくのかと考えれば、結論は加速主義である。人々はテクノロジーによる身体改造、企業経済(牧人)圏による囲い込みを受け入れ、企業にすべてを管理されることを当然のものとして受け入れる。

 加速せよ!脱出せよ!自由になれ!

 その先にあるのものは本当にユートピアなのだろうか。

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