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或る男の手記(昭和39年8月15日)

 僕は、この世界に嫌気が指していた。このどこまでも狂気と統制に満ちた世界に。だから、僕は人為が支配していない場所に、日本という帝国の辺境に逃れたのだ。

 そもそも、僕の生まれは北海道の、いや今は旭川県というのか、そこにある日本海に面した町の小さな写真館だ。その古ぼけた和洋折衷の建築のなかで、昭和16年11月23日に産声を上げた。当時はちょうど亜細亜主義と神国思想が絶頂に達していた時期で、ちょうど新嘗祭の時期に生まれた僕は、あの寒々しい時期に似合わない「穣(みのる)」という名前を付けられてしまった。

 故地は寒々しい海と荒々しい風が支配している町である。すべての富は船によって運ばれ、船によって齎される。僕はそんなどこか古臭い、そして男らしいこの町が大好きだった。しかしながら、僕はどうやらインテリゲチャに属する人間だったようで、そのような荒々しい道に進むことは許されなかった。僕はどちらかというと、彼らを支配する側になることを求められていた。僕は小学校、中学校とこの町の学校に進み、この町唯一の中学校で十指に入るまでの人物になっていた。

 ――とは言いながらも、その成績は主に国語、国史、生物、化学に支えられており、数学と英語は普通の学生なみだった記憶がある。そして、中学4年生の冬、僕は先生から小樽経専ではなく、興亜専門学校という聞きなれない学校を薦められた。僕の成績ならこの学校に入れるとのことで、僕のやりたい仕事の一つだった地質研究員や司書になることも出来ると嘯かれた。中学校の先生が両親を説得してくれたこともあって、僕は興亜専門学校に推薦で入学することができた。

 興亜専門学校は大東亜省が1946年に山梨県の谷村に開設した官立の専門学校である。その校地は桂川の谷合にあり、お世辞にも「専門学校」と呼べるものではなかった。周囲の話を聞いているうちに「ああ、騙された」とすぐに気づいた。どうやらこの学校は、帝都の優秀な子弟を集めることができなかったらしく、地方のそこそこ裕福で能力のある子弟を「国策として」女衒の真似事をして掻き集めてきたらしい。後々、聞いてみたら校舎は山梨県から譲り受けた高等女学校の「お下がり」とのこと。今考えても、やはりろくな学校ではない。今では谷村の赤の市庁舎なんていうあだ名をつけられるような立派な校舎になっていることは付け加えておく。

 興亜専門学校の勉強はとにかく楽しかった。非常に良い点は、文化人類学から自然地理学までの幅広い学問を横断的に学べるところで、教授内容から植民地に派遣する官吏を育成することを目的とした学校であることは明らかだった。しかし、当時の僕にとっては「組合主義に対抗するためには組合主義を知る必要がある」という考えから、マルクス、ソレルの著作まで読める大正自由主義を徹底した方針が大好きで、しかも司書の勉強も国費でやらせてもらえることが何よりもの喜びだったので、そんなことは気にならなかった。

 当時、流行の学問だった地政学、地理学、文化人類学、そして何よりも図書館研究が無償できることに喜びに包まれているうちに、僕はいつのまにか優秀学生になっていた。そんな優秀学生さまにも友人はいるもので、みんな癲狂院にいるような狂った連中だったが、そのうちの一人が図書館の読売を持ってこんなことを言った。「東京が大変なことになっているらしい」

 当時、僕は2回生だったから昭和34年か。そう、あと2年で宮城進軍事件が発生する頃だった。超然内閣の網の目をかいくぐり、サンディカリスト(組合主義者)やドナウイスト(労農主義者)が暴れまわっているらしい。この前は神田にカルチェラタン(ラテン語街)ができ、対抗して茗荷谷にドナウシュタット(ドナウ市)ができたとか。ヘルメットを被った連中が角材を担いで、一向門徒のごとく暴れまわっており、槍働きが評価されたら、組織のなかの地位も上がっていくらしい。そんなどうでもいい話を僕らにしてきた。

 正直、そったらはんかくさい戦国ごっこなど、高尚な学問を追究していた僕にはどうでもよかった。しかし、友人曰くどうやらドナウイストたちがお盆過ぎに皇太子永仁親王殿下の御聖断を仰ぐ為に、東宮御所に向かうとのこと。流石に谷村で田舎娘の尻を追いかけていたり、ワンゲルや歌声運動に興じる同級生をせせら笑っていた僕もそこには引っ掛かった。なぜ陛下の御聖断ではなく、皇太子殿下のを仰ぐのだ。恥ずかしながら、僕は30年の夏ごろから過激化していた玉音合戦すら知らなかったのだ。まあ、そんな顔を見た友人はお盆にでも赤坂に物見遊山に行こうじゃないかとさらに畳みかけてきた。こういう誘惑に弱いのがつくづく僕である。僕は他の友人2人とともにその提案に乗っかることにした。

 忘れもない昭和39年8月15日、普段ならこんなド田舎の高女のボロ校舎から逃げかえるように里帰りをするとき、僕ら4人は明け方でも茹だるような暑さのなか大月行きの電車に乗り込んだ。地獄の釜の蓋が開いて、その熱気が伝わっているような空気でも、東京に向かう車中はとても楽しかった。まるで中学の修学旅行の気分だった。各自で持ち寄った握り飯を喰らい、四ツ谷までどうでもいい議論を交わし、猥雑な会話を楽しんだ。

 四ツ谷駅に降り立ったときから、その雰囲気は異様だった。赤坂離宮までの道に人が詰まっている。しかも、その人の一部が褐色のシャツを着ている。後ほど知ったのだが、褐色隊という当時の協和党の私兵組織の制服だったそうな。そのような人並が永遠と続いている。どこか蟻の行列を思い起こさせる奇妙な光景に、僕はある一種の拒否感と吐き気を覚えた。他の友人たちも気圧されていたらしく、一様に黙り込んでしまった。

 このままではいけないと、僕たちはその人混みを掻き分けるように、前へ前へと進んでいった。そうして、どうにか赤坂離宮の近くに行きつくいたとき、聞くに耐えない不協和音を「軍楽隊」が流しはじめた。その瞬間――四ツ谷から赤坂離宮までを埋める有象無象の魑魅魍魎どもが一斉に「万歳!万歳!」と叫び、万雷の拍手が鳴り響いた。僕らはしばし事態を理解できなかった。

 下手糞な演奏が流れるのに合わせて、赤坂離宮の鉄柵の門が開き、一人の軍服に身を包んだ胡散くさそうな男が表れた。その男は皇族であるのに、一人一人臣民と握手をし、臣民と同じ位置に立っていた。僕らはあの高女の運動場で、何も見えないような位置で走る車のなかにおられる天皇陛下にたいしてただただ頭を下げることを強要されたことでしか皇族と関わったことがないから、その光景に異様さを覚えた。なぜこの男は、平然と民衆にたいして親密に振舞っているんだ。皇室の威厳はどうした?どこにいった?言葉にできない怒りがただただ沸いてきた。

 そうして、大衆が狂喜乱舞しているのを胡乱な男――皇太子永仁親王殿下がにこやかに眺めながら、褐色隊の用意した軍用トラックの荷台に登ると、ただただ黙って見つめていた。大衆から一気に熱気が冷める、そこには一種の狂信が表出していた。数万を軽く超える群衆がただ一点を、永仁親王を見つめているのである。ここに異常性を感じない人間は正直、鈍感を通り越して愚鈍そのものだ。僕らは愚鈍ではないからただただ震え上がっていた。

 「東亜新秩序の建設に邁進する臣民諸君に、心の底から『僕』は敬意を表する。」

 大衆が一気に沸いた。この男、この男、臣下が使うべき一人称を使ったぞ……。

 「しかしながら、我ら東亜の家族、同祖の臣民の団結を阻止する者たちがいる。昨今、帝国政府は我らの党を日本共産党や組合主義者同盟に並んで治安維持法の適用対象になりうると断言した。帝国議会はその言に反対もせず、その改悪を認めようとしている。この行為は我らの建設闘争にたいする何よりもの挑戦であり、君側の奸である強欲資本家を擁護する行為そのものである。」

 え、何をするつもりなんだ、こいつは――

 「今こそ、今こそ我らはその正義を、大東亜建設の大義を、帝国議会にたいして示そうではないか。臣民諸君よ、我らの大義を議会政治家にたいして示してやろう!」

 その瞬間、軍楽隊が行進曲(マーチ)を流しはじめ、謀ったようにトラックを先頭にして行進が始まった。僕はすっかり腰を抜かしてしまった。こいつ、この大馬鹿者はその言の意味、そして今の行動の意味を理解しているのか――いや、分かっているのか、こいつは自分という『玉』があれば、特高も軍部も手出しできなことを「分かって」やっているんだ。

 ああ、なんだ、何ということだ。これは紛れもない法治への挑戦だ。しかも、その法治を擁護すべき皇族がそれを扇動している。これは恐ろしいことになるぞ……。

 そこから先を僕は見れなかった。あのときの狂気に気圧された友人たちも同様だったようで、僕らは帰りの電車で一言も発することができずに肝を冷やした状態で谷村へと帰っていった。翌日の読売で連中が国会議事堂に乱入し、帝国議会の議事進行を滅茶苦茶にしたことを知った。

 ある人はこの愚挙を「憲政の常道への挑戦」と憤り、ある人は「東亜主義の大義の宣命」と小躍りした。しかし、僕はそのどちらにもなれなかった。ただただ嫌な予感が支配し、どこかラヴクラフトの宇宙的狂気に囚われることになった。僕たちのこの平穏な日常はもう終わりを告げるのではないか。この予感は嫌にも2年後に当たることになる。

 そうして、興亜専門学校を卒業した僕は逃げるように、勘察加庁の庁立図書館の司書職に応募した。無論、満州や朝鮮、台湾、香港、昭南などの有名地ではないので一発で合格し、こうして今も無為な日々を送っている。僕くらいの秀才なら大東亜本省でバリバリ働いて、高等官待遇を受けるのが当然だったが、あの狂気が支配している祖国にはもう帰りたくない。この穏やかな何もない土地でだた泥のように生きて死んでいく所存だ。

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