セックスという承認
肌を重ねることでしか得られないものがあると思う。
それは巷で温もりと呼ばれていたり安心感と呼ばれていたり、もしかすると愛の一部として明確に形を持つものなのかもしれない。
私はそれをエネルギーのようなモノだと捉えている。
このエネルギーは何か別のモノで代替することはできず、趣味に没頭したり友人と遊んだりしても得ることはできない。
言うまでもないが私が指し示すエネルギーとは体力や活力などとは別のモノで、言いようのない何かである。
体力であれば原因がはっきりしている。
働きすぎ、睡眠不足、体の酷使などが簡単に挙げられる。
このエネルギーの厄介なところは、消耗してしまう理由がわからないところだ。
先ほどまで友人と楽しく遊んでいたにもかかわらず、帰り道、突然そのエネルギーの渇きを感じ、呼びようのない悲しみや寂しさに襲われる。
そのエネルギーの正体はわからないが、私たちはそのエネルギーの補給方法を知ってしまっている。
そう、体を重ねることだ。
虚無感に襲われると知りながら、一晩の相手を探すのはそこでしか得られない何かを求めているからだと思う。
体を重ねることで快楽しか得られないのであれば、理性ある人間はここまで性に貪欲ではないと思う(そう信じたい)
また、ただの性欲の発散であるならば自分の手でこと足りるし、わざわざ関係性を複雑にする肉体関係を持つ必要がないようにも思われる。
やはり体を重ねることは発散や消耗だけではなく、何かしらを得ているのだと思う。
私は、このエネルギーの一部、もしくは全てが「承認」であると考えている。
私たちはふとしたときに、社会との断絶を感じる。
ゲイである私は将来のことを考えたときに多いが、そうでなくとも学校のこと、仕事のこと、家族のこと、友人のこと、とても小さなことで大きな断絶を感じることがある。
その断絶から救いあげてくれるのが、体の関係なのではないだろうか。
私は、体を重ねることは存在の承認だと考えている。
言ってしまえばモノとして扱われるこの行為は、明確な存在理由を私に与えてくれ、またその使命を全うさせてくれる。
相手の欲望を満たすことで、同時に自分の存在理由を裏付けることに繋がるのだ。
たとえそれが一瞬の出来事だとしても。
ゲイの世界においてノンケの世界より体の関係がより身近なものになっているのは、出会い系アプリが身近なものとして利用されていることと同時に、承認されたいという欲求が強いからなのではないだろうか。
もちろん、仕事や趣味で認めてもらえるゲイの人たちもいるだろう。
ただ、結婚や出産、家庭を持つというプロセスを辿ることのできない私たちは、社会からの承認を得難いことは疑いようのない事実である。
少しずつ世の中は変わってきているが、未だにゲイというだけで人格や人生を否定してくる悲しい言葉たちに出会うこともある。
「ゲイであることはおかしいことではない」
そう言いつつも、どこか不安になり誰かから認めてもらいたくなってしまう。
私も一時期、依存症のように体を求めていた時期があった。
何故か毎日が不安で、どこか満たされず、好きでもない男を求めて歩いた。
虚しくなる事実はあったが、体を重ねることでエネルギーの消耗がギリギリのところで踏みとどまってくれるのを感じていた。
体を重ねると言ったものの、手を繋ぐだけ、ハグをするだけでもエネルギーの補給ができるということに気付いたのは最近のことだ。
何を今更、と思うかもしれない。
しかし日本という国には、少なくとも日常的に握手やハグをする文化はないと思う。
私自身、友達と握手やハグをすることはほぼ皆無に近い。
そのため全く気付かなかった。
これに気付いたのは、売り専を買うようになってからだ。
体を重ねるだけでは満たされなくなり、それならばいっそと私は体を重ねることを一切やめてしまった。
仕事や趣味で認められようと頑張るようになった。
しかし、どうしても耐えられなくなってしまい売り専を買った。
それはクリスマスのことだった。
男とは体を重ねず、抱きしめてもらいながら話をした。
確実に満たされている実感があった。
相手の体温を通じた安心感があり、確固たる承認がそこにはあった。
手を繋ぐだけ、ハグをするだけでも泣きそうになるほどだった。
もちろん体を重ねることで満たすのもいいと思う。
ただ、好きでもない男と体を重ねることは同時に何かを失う危険性もはらんでいるから。
私は打たれ弱い。
ほんの小さなことに絶望し、何もかも投げ出したくなるほどにエネルギーがなくなってしまう。
だから、私に会ったら優しく握手をしてほしい。
「大丈夫だよ」とハグをしてほしい。
同時に私もあなたたちのエネルギーを満たせることを願いながら。
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