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ミッドナイトスワン

静かな、とても静かな映画だった。

予告では「世界で一番美しいラブストーリー」と謳われていたが、全く美しくなんてなかった。
もがき、あがき、観た人の心に小さなモヤを残していくような、そんな泥臭い映画だった。
そのモヤを晴らそうと考えること、そこにこの映画の意味はあると思う。
「可哀想」「残酷だ」といった感想では決してくくれない。

この映画は、決してトランスジェンダーというセクシャルマイノリティや、育児放棄といった現代の問題に焦点を当てている映画ではない。
それらはあくまで副次的なものである。
ただひたすらに真っ直ぐに、愛を求める人たちの物語である。

愛というものは単なる感情ではなく、愛するという行為によってのみ生じることのできる能動的な感情だと私は思う。
愛されてきただけでは愛を知りえない。しかし、愛されなければ愛することもできない。

この映画は愛することも愛されることも許されなかった二人の人間が、愛を知っていく物語である。

最初にこの映画の情報を耳にしたとき、正直「またか」と思った。
LGBTQ+の人々に焦点を当てたドラマや映画を、これほどあらゆる場所で目にするようになったのは社会が変わりつつあるということであろう。
それは間違いなく喜ばしいことだ。
しかし、それだけではないように思う。
最近、巷にはBLブームが到来している。
おっさんずラブをはじめ、タイBL、最近では「三十歳まで童貞だと~」というドラマも話題を呼んでいる。
私はこれらの作品を軽視しているわけではない。観ていてドキドキもするし、笑いもする。
しかし、どこか同性愛を売り物にし、商品として消費しているように感じてしまうことも事実だ。

本作はそういった性を消費するような作品ではない。

トランスジェンダーである凪沙は、歩いているだけで後ろ指をさされ、笑われ、冷たい目で見られる。
存在することすら許されず、しまいには「化け物」とさえ呼ばれる。

親の愛を十分に受けられなかった一果は、自分を押し込め、全てを諦めているような目で日常を捨てていく。

そんな二人が、惹かれ合うのは不思議なことように思われる。しかし、当然なのだ。
母親になりたかった凪沙は一果を大切に思うようになり、大切にされた一果もまた凪沙を大切に思うようになる。

私は同性愛者である。
「ゲイかよ」という冗談に怯え
「彼女は?」という質問に嘘をつき
「男なら」という言葉に傷付く。

理不尽ではないかと世間に怒り、同時にありのままに生きられない自分を恥ずかしく思ったりもする。

実家と疎遠になっていた凪沙にも、そんな気持ちがあったのだろう。
ただ、一果のためには実家へ帰ることも厭わず、悲しい言葉で罵られても背筋を伸ばし、ハイヒールで地面を鳴らし綺麗に歩く凪沙。
そんな凪沙に憧れずにはいられない。

映画の予告を観たとき、草彅剛の演技に驚いた。こんなにも自然に演じられるものかと。
そして同時に、映画を観終わったときには草彅剛は存在さえしていなかった。
そこには凪沙だけが存在し、私たちは凪沙に思いを馳せるのみである。
それほどまでに素晴らしかった。
この文章を書いているときでさえ、凪沙はあのとき何を感じ、何を思っていたのかと考えてしまう。

映画を観ながら、私はただひたすらに祈った。何に祈っているのかもわからなくなるほどに祈り、映画を観終わったあとも祈った。

私たちは無力だ。
そう感じるほどに、この映画は残酷である。
しかし、これが現実だ。
悲しいけれど、現実なのである。

祈ることしかできない私は、凪沙のために何ができるのだろう。
この映画を観た人たちは、何を思ったのだろう。
「トランスジェンダーについて理解を深めよう」など、そんな薄っぺらいことではないはずだ。

なりたい自分があるのに、なりたい自分になれるのに、それを許してくれない世界に何の意味があるのだろうか。

願わくば、祈らずともよくなる世界になりますように。

どうか。

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