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テレビ的な、実にテレビ的な、でも・・・

ライブビューイングを観るのは何年振りだろう。

サッカーずきならすこし分かってくれる人もいると思うけれど、
ぼくはW杯やアジア予選などのライブビューイングはまず行かなかった。
(もし野球マニアだったらWBCでもそうしていると思う)
応援の力はあるとは思うけれど、すきなスポーツ、特に緊張してやまない試合を鑑賞するときはひとりで集中しながら観たいし、展開次第では集中するだけでなく、時にボーッとしたりしてちょっと逃避したい時もある。中継をたくさんの人と共に見ると、自分の感情に沿わない鑑賞になってしまいそうでいやだった。それは、1998年フランスW杯の時、日本対アルゼンチン戦を同級生みんなで観たらなんとも言えない気分になった時に決まった。サッカーおたくの僕は「0-1」という結果以上にズシンとくるものを感じていたのだけど、周りにはそうでもない同級生もいて、その温度差といたたまれなさとに「もう2度とみんなでは、見ない」という”呪い”をかけていた。
同じような思いを持っているサッカーファンは意外と多いと思う。

でも、そんな”呪い”を解いてくれる存在に、2018年2月17日に出会った。

それは、ほんとうに、衝撃的な出会いだった。
渋谷にある編集室で、中国の歴史の番組を編集していた時だ。
テレビの編集室というのはカラオケボックスの一番小さな部屋みたいなものが1つの階に何十も並ぶところで、狭い空間にびっくりするくらい多くの人がいるのだが、その狭い空間からぞろぞろと人が出て、ロビーにあるテレビを見ていた。
テレビの右上にLIVEの文字。それは、韓国、ピョンチャンからの中継。
見ている人は記憶にある限り20人以上。
まさに、「ライブビューイング」。

男子フィギュアスケート、フリープログラム。
22番滑走に、その人は立った。

その演技に、僕は動けなくなった。

正直に言えば、そこまでその人のことを「認識」はしていても、
「応援」とまではいっていなかった。
伊藤みどりさん、浅田真央さんをテーマにしたドキュメンタリーを立て続けに作ったのがフィギュアスケートに魅せられた最初で、勉強しながらだったから、男子の方はボウっと見てしまっていた。
でも、ピョンチャンのフリーが中継されたあの日。
周りではおじさん編集マンや2、3日帰っていない汚い顔のディレクター(なお僕も似たようなものである)が知ったような口を聞いていろいろ喋っていたが、リンクにその人が立った瞬間、そして滑り出した瞬間、僕の意識は文字通り「翔んだ」。

人類の身体表現の極限を見せるもの、とは思っていたけれど、もはや「人類の」も超えて、自然のなせる奇跡のようにも見えて。命あるもの、自然の形が見せてくれるさまざまな奇跡を僕はテレビマンになって最初のころにたくさん見たけれど(たとえばバルデス半島で見たザトウクジラの跳躍、南極で見たリアル・ファーストペンギン、パタゴニアで見た突如轟音と共に崩れる氷河、ギアナ高地のテーブルマウンテンで見た平たい山頂から100本1000本と流れ落ちる滝・・・)、それらに近しい。

「こんなことがこの世にあるんだ」

韓国のそのリンクからは物理的に何千キロと離れているけれど、
「ライブビューイング」していた僕は中継されてきた映像そのものに胸ぐらを掴まれ、地面から浮き上がっているような気分でいた。
よくファンのみなさんが「●●落ち」というけれど、僕の場合は落ちたというよりも、一気に空の上へ「翔ばされた」感覚。

そうこうしている間に結果が決まり、メダルセレモニーの時にハビエルさんと宇野さんと何やら喋っている(でも聞こえない)時の、「You are so bad!」と言いながらのそのボロボロと泣く表情は、リンクで見せられた奇跡の時の表情とはまるで違って。
人でないし、人である。この短時間にそんな両極端な姿を往還できる人について、もっともっと知りたい。そう思って企画を書き、実現し、ドキュメンタリーを作った。その間ずっと、「翔ばされた」感覚がどこかにあった。

それから数年。現役の選手は制作会社の人間はまず100%取材できない規定があるため、その一挙手一投足に注目しつつも、取材相手とすることはできず。しかし「翔んだ」感覚は忘れられなかったので、おもいきって、ショウに申し込み、たまたま当選して見た。

実際に目の前に見て驚く。オリンピックの試合だけが「翔ぶ」感覚を与えてくれるのではない。たくさんの人と出たショウも、アマチュア選手引退を宣言してからのショウも、どれにも見る僕を空の彼方へ翔ばす感覚があって。
そして決定打となったのが、2023/2/26、このショウだった。

正直、40も超えて、一人でここまでのめり込んでいることに恥ずかしさがゼロだったかといえば、そうではなかったかもしれない。でも、この「GIFT」は、はっきり言って、そんな恥ずかしさをすべてぶっ飛ばす。もはや人類が作り出せるショウとして、究極中の究極である。「GIFT見た?」「見てないの?それはエンターテインメントをやる人間としてどうかと思うよ」と言ってしまえるぐらい。大袈裟でもなんでもなく、これらと同じくらいのショウ、同じくらいのLIVEだ。

それはご本人にとっても、きっとそうだと思う。
あれだけの空間に、あれだけの思いを尽くしたショウは、
人生の中で1度つくり出せたら奇跡というものだ。
それを成し遂げた、成し遂げてしまった以上、この先、
何を表現するのか?

とはいえ、これを書いている今日、2023/3/10から始まるショウ「notte stellata」は、会場も、日程も、東日本大震災と関わる人たちにまず見て欲しくて生み出されたもの。

だから僕は今回はチケット争奪戦に参加せず、仕事もドタバタすぎているのもあって、今回は見られなくても仕方ない、と思っていた。
・・・でも。
たまたま、きょう大変になるはずだった仕事が、仲間の奮闘のおかげで少しだけ楽になった。
「これなら、ライブビューイングに行けるかも!」
急ぎチケットを取り、僕は映画館に向かった。

映画館を見渡して驚く。チケットが取れたからどのくらいだろうと思っていたら、9割5分以上埋まっている。そしてこの中継は、台湾や香港でも行われているという。あらゆる中継先にいる人たちを合算したら、millionの数に登るのではないか。―――まさに、星の数のように。

そして、ショウが、始まる。
ぼくは中継が始まった瞬間に察知した。
中継スタッフの技術的つぶやき(休憩時にも同じ声でズームアップもうちょいしたら?とかパラ収録だから、とか聞こえた。あきらかに技術さんの言葉だ)が漏れてくる。
これはGIFTとは全く違う。
このような「漏れ」は許さない厳しさがGIFTにはあった。
でも、だからとってそれが「いけない」訳ではない。
(技術さんはもしこれを読むことあったら気をつけては欲しいと思うけれど)

GIFTが高みの中の高みへ、飛躍の果ての果ての、星々のすまうところまで、一人の天才がそれを見せるべく目指し、完成させたショウだとすれば、
このnotte stellataは、広く広く、誰でも分かりやすいショウ。
GIFTはダヴィンチの絵画や大友克洋の漫画、フェリーニやキューブリックの映画、nomaのコース料理に近いような唯一無二の「完全性」を目指したもの。
notte stellataは違う。一流のアーティストが、シェフが手がけることは同じだけど、もっと分かりやすく、親しみやすく。
そう、それは映画ではなく、まるで「テレビ」のように。

ぼくはライブビューイングの最中、このショウを1つの「生放送テレビ番組」として心の底から楽しんでいる自分に気づいていた。
それは、最初の独白からそうだった。
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