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自死について考える

著名人の訃報に心を痛める人が多いだろう。
私もその1人だ。

身内でもない、繋がりのない赤の他人であるのにこんなにも心を動かされるのは、その人の活躍ぶりを見て知っているからだろう。人ごととは思えないのだ。

「なぜ?」

これがその一報を聞いた人々の第一声であろう。

華やかな業界、たくさんのファン、溢れる才能、輝かしい経歴…
それらからは、「死」という文字を連想できない。

しかし、それはその人の一部にすぎず、側面でしかないのだ。

私たちは、著名人をメディアで報じられる部分、作品で演じている部分しか知らない。しかし、それが全てだと思ってしまう。

見られる一部分だけで、その人の全てを判断してしまい「死」への疑問が湧き起こる。

過去の発言、過去のSNSでの投稿を遡り、ほのめかすものがないか探り始める。最近の動向、発信を見て、変化がなかったか突き止めようとする。

それは自己中心的なパズルでしかない。「死」によって空いたパズルの穴を、自分勝手に作り上げたピースで埋めようとしているのだ。

そのピースがパズルの穴を埋められるはずがない。一見、埋められているように見えても隙間や色の違いが見られるであろう。

「死」を選ぶ理由はその人にしか分からず、原因は複合しており複雑で、誰も辿り着くことができない。一時点の問題ではないと思う。

こし「死」への個人的理由を突き止めようとするのはナンセンスだと思うが、傾向を掴むのは悲劇を連鎖させないためには重要だと思う。

人は孤独を感じたり、現状から未来を見通せなくなると辛くなる。それを打ち破る気力が無くなると、解放される「死」を求めやすくなる。

それに気づいて、すぐに助けの手を差し伸べられたら良いのだが、他者はなかなか気づけない。
SOSを発したくても、マイナスな言葉は吐きづらい社会である。辛い思いを伝えることは相当な負担がかかる。勇気を持って発せられたことは、賞賛される社会になってほしい。

誰もが日常に、自分が表しやすい方法で、自分の思いを吐露できる場を作ってほしい。

華やかな世界で活躍する、自分とはかけ離れていると感じる存在も同じく、感情ある「人」なのだ。

個人的理由の追求よりも、自分事に置き換えて 周囲や自分の異変に気づける身でありたい。

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