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小説 『雪の春』

雪が積り、しんしんと冷え込む夜から朝にかけての時間がとても不思議な気持ちになり、好きでした。

あらゆる時間が止まったかのような、
自動車や人のざわめきの音が消え、全ての人の行いという、あらゆる活動が静止してしまったかのような、あの時間がとても好きでした。

あの日の夜も大雪が降って、周囲の世界を一変させました。

その夜、私は自宅の部屋で寝転がっていたのですが、降雪が強くなり始めたとラジオの天気ニュースで聴いて、二階の自室の窓を開けました。

外の情景を眺めると、一面が真っ白となっていて、京都の舞妓さんの顔の白粉よりも白く際立っているように見えました。
触れてみたいと思える美しさでした。
特に真夜中のため、空の黒さとのコントラストで雪の白さが美しく際立っていました。

それまでの世界が終わって、一旦リセットしてしまったかのような光景に見とれていました。
すると、白く塗り替えられ始めた地面を黒い物体の動くのが目に入りました。
ゆっくりと左から右へと横切っていました。
よく見ると、一匹の黒猫でした。
「あー、あの猫か」と思い出したように、私は呟きました。 

その猫は、半年くらい前から、私の自宅アパートの前まで、食べ物をねだりに来ていた黒猫でした。 私が自宅に帰ってくると、その黒猫が部屋の玄関先で待ち伏せしていました。
このアパートでは飼うとか、世話するとか、してはいけないことになっているので、堂々と食べ物をあげることはできなかったのですが、真夜中にそっと玄関先に食べ物を置いておくと、スタスタと駆け寄ってきて、がっついて食べてくれる印象がありました。そんなやり取りが何度となくあったのですが、寒い冬の季節に入ると、途端に、姿を消したのでした。

私は、おそらく、近所の西洋風庭園のある屋敷のお宅に囲われているのだろうなと推測していました。

その屋敷は、結構なお金持ちと評判だった中年の小太りの男の自宅でした。私は、彼を「屋敷さん」と呼んでいました。そこには、屋敷さんと一回りくらい年下で美人と評判の奥様と、還暦を迎えたくらいの老齢の家政婦が住んでいるそうなのですが、女性らは、あまり外に出ることは少ないようで、私も顔を見たことがなく、住んでいるだろうという噂ばかりが広がっている程度でした。

その人気(ひとけ)が少ない邸宅の側を、何年か前に散歩していると、その黒猫が子猫だった頃のようで、その庭を駆け回っているのを見かけていたのでした。以来、何度か、その庭でゴロゴロと寝転び、仰向けにもなるなど、寛ぐ姿を目にしていました。

その黒猫が、この寒い雪の降る真夜中に外を歩いているとはどういうことだろうと考えてしまうのでした。

「もしかしたら、あの屋敷さんのお宅から追い出されてしまったのではないだろうか?」

そう考えながら、黒猫の動きを目で追っていると、猫は急に方向転換して、私の視界上では、左右移動から上下移動へ、つまり、下から上へと進み始めたのです。
その動きが、何とも墨絵を描いているような気がして、美しいと感じました。黒猫が筆の動きに見えました。

そして、いつのまにか、黒猫が「屋敷さん」のお宅から追い出されたのかもしれないという心配は消えてしまっていたのでした。

すると、黒猫は私の視線に気づいたのか、こちらに振り向いたのですが、見えなかったのか、すぐさま元の方向に向き直し、筆の字が描かれるように、静かに進んでいったのです。
ただ、筆字との違いは、描かれた墨跡が黒色ではなく、凹型の白字で、点々と描かれていることでした。

黒猫が新たな白雪をまき散らしているようにも見え、その墨跡は白く輝いていました。

新鋭画家による水墨画の作品でも見ている気持ちになり、まるで自分の部屋の窓が額縁で、外の世界がキャンバスのようで贅沢な気持ちになりました。

その内に、雪の降り方が強くなり、同時に冷え込みも強くなったので、窓を閉め、床に着いたのです。


目を閉じてしばらくすると、暗闇の中から、あの黒猫の顔が浮かんできました。さらに見開いた目の玉が私の方へ迫ってくるのです。しかも、目が、どんどん大きくなります。
「ワッ」と声を上げて驚いた私は、思わず目を開けました。

すると、いつのまにか私は、その屋敷さん邸宅の門前に 立っていたのです。

見上げると、顔も含めた上半身が烏で、下半身は人の形をした者が、門扉の上から見下ろしていました。下半身は、執事が着ているようなタキシードズボンを身につけていました。
どこかからか「八咫烏(ヤタガラス)ですね」と声が聴こえてきた気がしました。
そのヤタガラスは、こちらの顔を確認すると、黙して扉を開けました。入ってくるようにと言わんばかりに、その羽をばたつかせて、扉の向こうに広がる庭園の中の、うっすらと雪に覆われた石畳の道を奥へと真っ直ぐに進んでいきました。
私は、そのヤタガラスに導かれるというより、誘い込まれるように付いていきました。

一般的な一軒家二つ分とも思われる広さの西洋風の庭園の先には「屋敷さん」の邸宅が建っていました。
雪で覆われた邸宅は、いつも以上に白く宮殿のような耀きを増しているようでした。

玄関の扉を見ると、みるみるうちに白い能面の般若のように見えてきました。さらに、その口が大きく開いたのです。

怖くなった私が後ろを振り向くと、一層、吹雪は強くなってきました。
私の歩いてきた庭の石畳の道の一面は一気に真っ白に覆われてしまい、私の墨跡は消え失せてしまいました。門がどこにあったのかも把握できないまでに視界が遮られていました。
もう前に進む選択肢しかありませんでした。いつの間にか、ヤタガラスは消え失せていました。
私は、意を決して勢いよく、般若の能面の形をした玄関扉に飛び込みました。

・・・・

飛び込んだ先には、先ほどのヤタガラスがこちらを向いて、暗闇の中に立っていました。
ヤタガラスの上半身は、目とクチバシが確認できる程度でしたので、とても不気味に感じました。
ヤタガラスが口を開いて言うには、ご主人様が、私をお召しになったというのです。

主人とは「屋敷さん」だろうかと推測しながら、ヤタガラスに案内されて、奥の部屋に入りました。
そこは書斎らしき部屋でした。奥には机一つありました。その上に、何と、私もよく知っている「黒猫」が、ちょこんと座っていたのです。
思わず、私はヤタガラスに尋ねようと振り向くと、いつの間にかヤタガラスは消えていました。私は、頭の中で、ぐるぐると想像を巡らせました。

「主人とは、黒猫だった?
屋敷さんに追い出された黒猫?
それでは、屋敷さんは?
もしかして食われた?」

すると、こちらをじっと見つめていた 「黒猫」が喋り始めました。

「あんな食っても不味そうな人間など、こちらから願い下げよ。猫の生き方を少しは
見習ってほしくてな。少し術をかけてやったのよ。」

唐突に喋り出した「黒猫」に驚きつつ、ヤタガラスも含めて、先ほどから続く摩訶不思議な体験に慣れてきたのか、人間に対するように「黒猫」に話しかけます。

「もしかして、先ほど私が部屋から見た雪道を歩いていた黒猫は?」

「そうだよ。 あれが、ここの強欲な亭主よ。
体の外から中まで 金や銀で出来ているんじゃないかと思えてならない。あれじゃあ食っても不味そうだろ。それに比べてお前はどうかな?」

ヨダレが滴る音が部屋中に響き渡ります。
その音に共鳴したのか、私の全身は琵琶の弦が音を出しながら揺れるように震えました。

「黒猫」は、机から飛び降り、私の身体の周りにまとわりついてきました。
初めは、普通の猫と同じような大きさに見えていたのが、どんどん大きく膨れ上がり倍増している気がしました。

「黒猫」の顔は私の耳元まで近づき囁きます。
「傲慢で、強欲な人間たちは思い知るべきだよ。お前はまだ毒され切ってないようだから旨そうに見えるな。 金や銀の毒に侵されていないところが。」

私は、恐怖の感情を抑えながら応えます。
「なぜですか? 金や銀を持つことが毒されることになるのですか?
今の時代は、それで人を助けることができるのではないのですか?」

その途端に、「黒猫」はヒャッヒャッと声を上げて笑い出しました。
「いいね! その中途半端なところが 旨そうなんだよ。」
その後、急に真顔になって
「しかしね。金や銀を手に入れて、 人を助けずに、この屋敷の亭主みたいに、自分の屋敷を金銀で固める輩もいるのだよ。そんな輩が強欲でないと言えるのかな? 」

私は反論します。
「しかし、あなたは、この屋敷さんに世話になったのではないですか?食わせてもらって。寝床を与えてもらって。」

「黒猫」は 笑いながら答えます。
「つくづく中途半端な青二才の人間だな。
そのように仕向けたのはこちらだよ。猫は、人の心を操るのよ。初めて会ったときは、ここの亭主は私のことを毛嫌いしていたよ。」

すると、玄関先からドタバタと音が聞こえてきました。
何事かと思い、音がする方向に目を向けると、ヤタガラスが何かを追い払おうとしているのが目に入りました。

どうやらネズミの群れようです。
何匹かが玄関先で駆け回っているのを、ヤタガラスが羽をばたつかせて、風圧の力で外に追い出そうしているのでした。

「旨そうな奴らがやってきたよ。」
と「黒猫」は言い放ち、その背中は丸みを帯び、ネズミ軍団に向かって臨戦態勢を取っています。

「今回は、こいつらを狙うとするか。命拾いしたな。青二才の人間よ。次に会うときまで 毒されずに居てろよ。」
と、身体を曲げ伸ばし、準備運動をしながら、「黒猫」は私に話しかけました。

その途端、急に私の目の前が吹雪で覆われてきたのです。さらに、自分の立ち位置をつかめくなり、浮遊している感覚に陥りました。

気付くと私の自宅の玄関先に立っていました。
部屋に入ると、ひどく疲れた感覚になり、暖房をつけ、服の着替えだけ済まし、直ぐに寝床につきました。

夜が明けると、救急車のサイレンの音が聞こえてきて、それで私は目を覚ましました。

人のざわめきも聞こえてきました。
耳だけを澄まして聞いていると、どうやら、「屋敷さん」が、近所の空き地でうつ伏せの死体となって発見されたと囁き合っているようなのでした。

死体は赤い鮮血と白雪に覆われていたそうです。私は不謹慎ながらも、その色合いはとても美しかったのではないかと想像を掻き立てました。
さらに、あの黒猫の仕業かと思い始めるや否や、手肌に異変を感じ、飛び起きたのです。

私の手に ヌルリとした濡れた液体の感触があったからです。
見ると私の手が鮮血に染まっていたのです。


見回すと、鮮血は両手と布団についていました。
私は、寝間着のまま部屋を飛び出し、「屋敷さん」の邸宅を目指して走りました。
邸宅の門前に着くと、また、あのヤタガラスが門扉の上に立って、こちらを見下ろしていました。
すると、私の視界から消え去った、かと思った瞬間、降りてきて私の目線の前に現れたのでした。
再び、黙して門扉を開けてくれ、入るように羽をばたつかせながら、促してくれました。

中の庭園は、一層の厚い雪に覆われていました。ただ、園内の一筋の石畳の道のみ白雪ははけられていたので、すんなりと歩いて邸宅の玄関先まで向かえたのです。

玄関の扉は、再び、能面の般若の形に変化して、その口が開きました。
今回は、ヤタガラスが先にその口に飛び込み、続いて私が迷いもなく飛び込みました。

気づくと、邸宅内の書斎の部屋扉の前に立っていました。
ヤタガラスが黙して扉を開けてくれました。

開いた扉の奥には、再び「黒猫」が机の上にちょこんと座っていたのでした。

「また来たな。人間の青年よ。」
「黒猫」は、前よりも優しい口調で話しかけてきました。

「 あなたの仕業ですか?」
と、私は、自らの手の平を「黒猫」に見せるように差し出しました。

しかし、血塗られたはずの手の平は清潔そのもので、血は完全に消えていたのです。

驚いた私を、まじまじと見つめていた「黒猫」は、その顔を次第に私を小馬鹿にしたような、ニヤニヤした表情へと変化させていきました。
その両目と口元は、それぞれ三日月の形に、互いを反発させるように外側に弧を描いているのでした。

「幻を作るくらい容易いことだよ。しかも、消すのもね。付け加えるなら、人間そのものもね。」
そう言いながら私を見つめる「黒猫」の目は、いつしか獲物を狙うかのような鋭く、マサカリの刃のように見えてきたのです。

私は、金縛りにあったように動けなくなりました。

「よくヌケヌケと戻ってこれたな。人間よ。
命拾いさせてやったようなものなのに。
昨晩の小ネズミどもだと、少々物足りないと思っていたころよ。」
と言って、「黒猫」は口元から垂れるヨダレを前足で拭いました。

「あなたが殺したのですね?」
私は動けない身体ながら、精一杯の声を出し、問いかけます。

黒猫は、鋭い目を私に当てたまま、答えます。
「 ここの亭主のことか? さあどうだろうね。しかし、元々、あいつは死ぬ運命だったのだから、驚くことではないがね。」

「どういうことですか?」

「多くの人間から恨みを買っていたということだね。」
「黒猫」は話続けます
「私はずっと見ていたのでね。この亭主の浅ましさ、欲の深いところをね。」

「この前言っていた金稼ぎについてですか? 金稼ぎが悪いことのように 話していましたね。」私は震えながらも「黒猫」から目をそらさずに返します。

「何? 違うね! 何も金稼ぎが悪いとは言ってはいないよ。この男の稼ぎ方が欲深くて、やり過ぎだということよ。 」
と言った「黒猫」の視線を向けた先には、
「屋敷さん」らしき死体があったのです。
「らしき」と言ったのは、頭から顔にかけて血まみれで、はっきりと判別できないからでした。身体つきが「屋敷さん」に似ていると感じたのです。

私は驚きながらも、不思議なくらい冷静な口調で発言していました。
「やはり、あなたの仕業だったのですね。」

「何のことだ?これは、自身で死を選んだのよ。この大雪の中、自ら選んで外へ出ていったのよ。」

「でも、あなたがそう仕向けたのでしょう?」

少し目を見開き、驚いたような表情を見せつつも、すぐにニヤニヤした表情へと変えて、「黒猫」は答えます。
「察しがいいね。少しずつ青くくささが抜けていっているようにも見える。つまらんね。一晩しかたっていないのに。」

少し間をおいてから、「黒猫」は話します。
「この男は敵だよ。私にとってはね。私を可愛いがってくれたのは、この男の奥方だよ。」

私は 「屋敷さん」とおぼしき死体を注意深く見つめました。

「黒猫」もその死体を見つめて、というより、蔑む目つきで見下ろし、話し続けます。

「奥様は、私がまだ子猫で、この屋敷の側に捨てられていたのを拾ってくれてね。大切にしてくれたよ。しかし、この旦那は初めて私を見たとき、黒いこの身体の色は不吉だと決めつけて、捨てさせようとしたのよ。
対して奥様は、黒色の猫も地域によっては幸せを運ぶ猫として珍重されているから、吉兆の証だと言って説得してくれた。

それで私がここに住めるようになった訳だ。
初めは、怪訝な目で見ていた旦那も、私が住み始めてから、事業が徐々に上手く回り出したらしく、金回りが良くなったようだ。それで、私への軽蔑の目も多少は和らいだ。

ただ、事業が上手く回りだしたのは、近年起きた、海外での戦争が影響しているそうだ。

この旦那は、商社勤めでね。それなりの役職にもついているそうでね。食料品を扱う会社らしい。
外国の食料品を国内や別の外国へ売りさばいているそうだよ。
だから、この家には、外国の珍しい食料品が置いてあることが多かった。
なかなかの美味のものばかりだったよ。」

「黒猫」はヨダレを滴らせていました。

「それで、何で、この旦那の会社が儲かっているのかと言えば、数年前から外国で戦争が起きているから、食糧不足になる地域があるし、戦争に参加している国々では特に需要は高まっているのよ。何せ兵士たちが特にたくさん食うからな。
そのような地域の人々に向けて、世界中のどこも食糧難で、物価が高騰しているからとか言って、納得させて、僅かでも高値で食料品を卸売りすることで、利益を得るようになったそうよ。
何とも貪欲な下劣なやり口だな。この商売人は!正義感を振りかざし、正義のヒーロー気取りで、苦しんでいる人の前に登場しておきながら、そこから金を取って儲けるというのは・・・」

「黒猫」は話すうちに徐々に声を荒げていました。

「金が少ないところから取るというのは、道理に反するだろ! より苦しませて、有り難みを感じさせるという。金に目が眩んだ愚かな人間のやり口よ!」

しばらく黙って聞いていた私でしたが、つい口を挟んでしまったのでした。
「その金で、多くの人を助けようとしていたのかもしれないですよね・・・」

「黒猫」は目を丸くして、反応します。
「かばうのか?相変わらず、お人好しだな。」

私は反論しました。
「あなたも、その金で助けられたのでしょう? その汚い金で手に入れた食べ物を生きてこれたのでしょう?」

「黒猫」はクスクス笑いながら、動じません。
「当然だろう!目の前に食い物があれば生きるためには食うだろう?それがどんなルートで回ってきた物であろうが、そんな余計なことは考えないよ。猫だからな。人間のように細かいことは考えなくてもよいのよ。生き抜くことが最優先だからな。」

「黒猫」は私を馬鹿にするような目付きを変えないまま、話し続けます。
「この旦那が、道から外れぬお金儲けをすればよかっただけの話だろうに。
金の少ないところからは、少なめに取っておいて、多くを持っているところからたくさんもらって、別の困っている人へと回せばよいではないか?
お金をたくさん得るかどうかなど、人の価値判断に繋がらないだろうからな。

そもそも、人が生きるのに、そんなにたくさん金がいるのだ?
生きるのに必要なものなら、直接もらえばよいだろうに。金を間に挟まないで。私ら猫みたいにな。」

私は、「黒猫」の怒りのこもった言い草に押されながらも、またしても反論しました。
「人間は猫と違いますからね。物をもらうためには、信用されないといけません。信用されるためにはお金を出さないといけないのです。」

「黒猫」は間髪入れずに、攻撃してきます。
「信用の代わりが金か? 他人を苦しませて取った金が信用なのか? 金以外でも信用は得られるだろうに。 」

私は、結構声を詰まらせながら応えました。
「金以外でも信用を得ることはできるでしょうが、信用は目に見えないものですから、何と何を交換していいのかの判断が分からなくなりやすいでしょうし・・・」

すると「黒猫」は、ゲラゲラと笑い出しました。
「何だと? 信用は目に見えないから分からない? 目に見えないものも分からないのに、お金の数字の価値が正しいと思っているのか? お金の数字が本当に正しいのか、少しは疑問を持っているべきではないかな? 」

「黒猫」は、堪えきれない笑いを抑えながら、続けます。
「まあ、その話はいいよ。 とにかく、話を戻そう。金回りのよくなった、この旦那の屋敷で、私は平和に暮らせたよ。ある時までは。」

「ある時まで?・・・」

「そう半年くらい前かね。奥様が血を吐いてしまってね。結核らしく、そのまま入院してね。帰らぬ人になってしまったのだよ。医者の見立てでは、元々身体が弱かったそうだから、仕方ないと言っていたそうだ。
ただ、旦那が海外出張で、奥様が、この屋敷全体の管理も任されるときも多かったから、かなりのストレスはあったと思うよ。さらに、この旦那は仕事上で恨みも買っていたからね。嫌がらせの電話も何度もかかってきたこともあったよ。その心労が重なってとの見方もあったそうだ。
そして、奥様がいなくなって以来、旦那の私への眼差しは再び厳しくなったよ。

おかげで家では大して飯にありつけない日も出てきた。近くの家々におねだりする日が増えてね。それで食いつなぐ日もよくあったよ。
そういえば、お前にも何度か世話になったかな?

そして、この旦那は、家を空ける日も増えてね。 家政婦もいたが、逃げていったよ。家政婦も、私ら猫を怪訝な目でよく見ていたからね。それは、居なくなってせいせいしているがね。あのカラスが追いやってくれたのよ。」

そう言った「黒猫」が、ちらりと玄関へ目を向けました。私を案内してくれたヤタガラスが、こちらを向き、膝まづいていました。頭もペコリと下げました。
開けっ放しになっていた部屋扉から玄関までは一筋の廊下で繋がっていました。はっきりと顔を確認できる距離にヤタガラスはいました。

「あのカラスは何者ですか?
なぜ下半身が人間の体なのですか?」

「あれは単なるカラスよ。幻術で見せているだけよ。私のために死ぬまで働かせてやるのよ。」
「黒猫」の口調には怒気がこもっていました。

「どういうことですか?あなたは、あのカラスに恨みを持っているのですか?」

「あのカラスは、子猫だった頃の私を襲ったのだからね。奥様のおかげで命びろいしたのよ。絶対許すまいと思い、探し出したのよ。
そして、次の獲物は、この旦那という訳よ。
何せ、私の最も信頼すべき、親愛すべき奥様を殺したのだからね。死んだ後も後悔させてやる。成仏させてなるものか!」

怒りを露にする「黒猫」をじっと見つめながら、私は、途中から、ふと思いついた疑問を投げかけました。

「あなたは、奥様が亡くなられるところを見たのですか?」

「黒猫」は、私に対して初めて 意表をつかれたという顔つきをしました。少し言葉を失っていましたが、直ぐに気を取り戻して答えます。
「可笑しなことを言い出したな。ここの奥様が亡くなったことくらい知っているだろう? お前は、この近所の人間だろうが。」

「亡くなられたとは聞いていませんね。ご病気になって入院されたとは聞いています。後はどうなったか、分かりませんが。」
「黒猫」は少し動揺を隠せきれない様子を見せました。
「ならば、消息は知らない訳だな。」

「確かにそうですが、亡くなられたのであれば、私のところにも話が伝わってきているはずです。
ご実家に移られたとの噂はありますが、亡くなられたという噂は聞いていませんね。」

かすかに声を震わせながら「黒猫」は、
「なぜ、そのご実家へ移られたという噂が、私の耳に聴こえてこないのだ?」
と私に尋ねてきました。

「確かなことは分かりませんが、もしかしたら、あなたに知られたくなかったのではないでしょうか?奥様自身が。生きているのが分かれば追いかけてくるかもしれないと思って。そうしたら感染の危険性もあります。あるいは、あなたに弱っている自分を見せたくなかったのかもしれません。忘れてほしかったのかもしれませんね。」

唖然とした表情をしている「黒猫」を見つめながら、私は話し続けます。
「それに、この旦那様は、とても愛妻家でこの近所では有名でしたよ。元々身体の弱い奥様のために効く薬や健康法など、真剣に近所の方々に聞く様子を耳にしたことは何度かあります。また、猫のあなたに奥様を取られたとか、嫉妬めいた愚痴をこぼしていたとの話も聞いています。
猫のあなたのことを苦手だと思っていたかもしれませんが、あなたを手にかけるとか暴力を奮うことはなかったのでしょう?」

「黒猫」は憮然した表情で
「食い物を少なめにしかよこさない時点で、立派な虐待だがな。」
と不満げに呟きます。

私は一呼吸を置き、応えました。
「この旦那様が、周囲の近所の家々に、猫を預かってもらえないかとか、食事の面倒を見てもらえないかとか尋ね回っていたという話は聞いています。」

「黒猫」は、再び意表をつかれたという顔つきで、私を見つめてきました。

「おそらく、毛嫌いしていたあなたを素直に優しくはできなくても、愛していた奥様が面倒を見ていたあなたを見捨てることはできなかったのではないでしょうか? たぶん奥様の容態は決して良いわけではないでしょうし、もしかしたら、命も長くはないかもしれません。
あなたを、奥様との思い出の詰まっていた、この屋敷から遠ざけて、 奥様のことを忘れさせようとしていたのではないですか?思うに、旦那様なりのあなたへの誠意だったのではないでしょうか?」

「黒猫」は、落ち着きを取り戻した表情で「にわかに信じがたいな。しかし、この男ならありえるかもな。」と応えました。

「黒猫」は目を閉じ、話し続けます。
「不器用な男よ。素直な誠意を初めから見せていれば、このようなことにはならなかったのにな。人間は馬鹿だな。特にこのような男は。体裁とか、プライドとかばかり気にして、無駄な争いばかり。国と国との間の争いもそうだな。無益な戦争ばかり起きるのよ。」

少し間が空いて、
「もう食う気も失せたよ。」と言って「黒猫」は私に背中を向けました。
続けて、早々にここから立ち去るようにと呟いたのです。

その途端、私の体は宙を浮き、目の前が真っ暗となって、気も失っていました。
気づくと、再び、自宅の部屋の寝床へと戻っていたのでした。
前回のように、私の手に違和感はありませんでした。
その安堵感からか、すぐに眠りに落ちてしまいました。

次に気づいたとき、外から早朝の鳥の囀り(さえずり)が聴こえてきました。

ふと、「黒猫」のことを思い出し、外に出て「屋敷さん」の邸宅まで向かいました。

門扉の前で立ってみると、前のようにあのヤタガラスは現れません。

すると、一羽のカラスが「カー、カー」と鳴きながら、「屋敷さん」の邸宅の屋根の上を飛び去っていくのを確認したのです。

数日後、屋敷の中から黒猫が死体となって発見されたと近所の家々から聞こえてきました。
さらに、その黒猫の死体の隣には、凍死寸前の「屋敷さん」も共に発見されたというのです。
「屋敷さん」の会社の同僚が、数日間連絡が取れないので、様子を見にきたところ、門扉の呼鈴を何度も鳴らしても反応がなかったため、警察に通報して中に立ち入ると、そのような姿になっていたそうです。

「しかし、屋敷さんは、先日、外でうつ伏せの死体となって、発見されたのではなかったのか?」
と、話を聞いた私の頭の中では、記憶がぐるぐると回っていました。
そこで思い出したのは「黒猫」の台詞でした。

「・・・幻を創るなど容易いことだよ。もちろん消すのもね。付け加えるなら、人間そのものもね。・・・」


「ならば、あの時のサイレンや近所の人たちの囁きも幻術か? 屋敷の中の血まみれの死体も幻術?幻聴と幻覚ということだったのか?」

様々な憶測が私の頭の中で飛び交い、会話をしていました。

真相は不明のままでした。

ただ、しばらくして判ったことは、
凍死寸前だった「屋敷さん」は、一命をとりとめたのです。
その「屋敷さん」が語ったことは、次のようなことでした。

・・・・

豪雪の夜、自宅へ戻るために外道(そとみち)を急ぎ足で歩いていると、前から歩いてきた何者かに、すれ違い様に、いきなり鉄棒のような物で叩かれそうになったのだ。
その途端に気を失ってしまった。
気づくと、自宅の玄関で仰向けになっていて、世話をしてきた黒猫がそばにいた。
驚いたことに、人間の言葉を話し出したのだ。

「奥様の命に免じて、助けてやる。
さらに、私の命と引き換えに、お前のもつ恨みを買い取りしよう。
その代わり、今後は、二度と人から恨まれるようなことはするなよ。奥様を大切にしろよ。

どうせ人間の生涯など僅かなものよ。
恨みを買わずに楽しんでみな。

もし、同じような恨みを買うことをすると、今度はお前を助けてくれるものはないものと心得よ。」

そう言うと、黒猫は、スッと消えていった。
というより、私自身の記憶が飛んでしまったのだ。

・・・・


以上のようなことを、「屋敷さん」は語ったのです。

その後、一年近く経った頃、「屋敷さん」は、例の西洋庭園の屋敷を格安の旅館として開放し、経営や収益を得るなどの権利は手放したそうです。
彼自身は奥様の実家のある街へと移って行きました。

奥様は何とか一命をとりとめ、寝床を友とした生活とはいえ、時には外の光を浴び、散歩もできるようになったと、風の便りが届きました。

「屋敷さん」は、新天地で新しい仕事を始めたそうです。
まず、新居の近くの畑で農作物を作り、自給生活に挑戦を始めたようなのです。
さらに、商社の貿易の仕事での経験も生かした事業も立ち上げたようです。
食料難に苦しむ人々の支援のため、世界中のお金持ちから寄付金を集め、食料を公平にまんべんなく行き渡らせるための事業だそうです。

その話を私が知ったとき、再び、私の住んでいる街に雪がちらつき始めました。大雪の予感がしました。

同時に、大雪の中に描かれた、「黒猫」の筆による墨絵に美と大いなる幸せを感じたことを思い出しました。

私は、部屋の窓を開けてみました。
昨年と同じように、雪化粧し始めた道や家々の光景に惚れ惚れしました。
すると、一匹の黒猫が私の視界を横切ったのです。
【了】



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コーノヒロ


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