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『蟻』

小学生の娘が耳が痛いので見てくれというので、
膝枕をして耳の穴を覗き込んだ。
特に腫れている様子もなく、おかしなところは
見当たらない。
「どの辺りが痛む?」
俺は出来るだけ部屋の明かりが穴の奥に
届くようにしながら注意深く覗いた。
その時、穴の奥で何か動いたように感じた。

ん?虫?
俺は娘の頭をそっと床に下ろすと、
懐中電灯と耳かきを持ってきた。
再び膝枕をして、耳の穴を懐中電灯で照らす。
やはり奥の方で何かが動く気配がした。
「ちょっとこのまま、じっとしてな」
俺は娘になるべく動かないように言うと
懐中電灯を照らし続けた。

しばらくそうしていると、奥から一匹の小さな
蟻が顔を出した。
どうやらこいつが、いたずらをしていたらしい。
俺はそっと耳かきを穴に入れると、
蟻を出そうとした。
しかし、蟻は用心深く、すぐに穴の中に
消えてしまう。
しばらくするとまた顔を出すので、
辛抱強く、何度も繰り返していたが、
蟻を外に出すことはできなかった。

しびれを切らした俺は、耳かきをもう少し奥へと
入れてみることにした。
奥の方からかき出そうというわけだ。
慎重に耳かきを差し入れてゆく。
やがて、何やらぶよぶよとした感覚に行き着いた。
耳の中に、こんな感覚のものがあったっけ?
不思議に思いながら、耳かきの先でつついてみる。
娘は、くすぐったいと身をよじった。
「ほら、動くと危ないぞ」
そう言った矢先、娘の体がぴくんと小さく跳ね、
耳かきの先に、何かに突き刺さったような
感覚が伝わった。
それは、ミカンの皮をむいて取り出した袋に
歯を当てて噛み潰したような感覚だった。
俺は慌てて耳かきを抜き出した。
「大丈夫か?痛くないか?」

しかし娘は、何も言わず、ただ真正面を見つめている。
ふと、抜き出した耳かきを先を見ると、
先ほどの小さな蟻が数匹、蠢いていた。
俺は耳かきを放り出すと、娘の耳の穴を
懐中電灯で照らした。
穴の中は、無数の蟻が我先に外に出ようと蠢き、
溢れんばかりであった。
その後も蟻は、幾筋もの行列を作り、
いつまでも途切れそうになかった。
やがて、耳からだけでなく、鼻や口、目のふちからも
蟻が涌き、娘の顔は蟻に覆いつくされてしまったが、
俺には、なすすべもなかった。

娘はすでに息絶えてしまったのだろうか?
ぴくりとも動かない。
俺は何もできず、ただ見つめていることしか
できなかった。
しばらくすると、ペコッという音とともに、
娘の顔が陥没した。
それはまるで、一気に空気が抜けてしまった
ゴムボールのようだった。
俺は初めて、悲鳴を上げた。

やがて、娘の胸のあたりが激しく震えだした。
体の奥の方から、ばりばりと
何かを引き裂くような音が聞こえる。
そして突然に、娘の体が2つに裂けた。
それはまるで、観音開きの扉を勢いよく
開けた様子に似ていた。
俺は、ぽっかりと開いた穴の中に、
蠢くそれを見つけた。

大きな女王蟻だった。
ぷくぷくとした腹を持つそれは、
もぞもぞと動きながら娘の体に開いた穴から
俺の方を見上げた。
俺の意識が遠のいていくなか、
それの鳴き声だけが、はっきりと
耳の中で聞こえていた。

それは、小さな耳障りな声で、何度も何度も
「お父さん」と鳴いていたのだ。

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