見出し画像

本当の「前向き」って

予想していた以上に心をえぐられて、一息で読み切ることができなかった。これまでもこれからも、「自分が女である」事実は一生変わらない。この本の中で一瞬も主人公が救われたと感じる瞬間が見当たらなかった。
だけど、描かれていたのはごく普通のどこにでもある日常だった。

「82年生まれ、キム・ジヨン」

ちょうど、個人的な経験がきっかけで何年も悩まされ続けてきた痛みがぶり返しているタイミングだった。たった一言のひっかき傷で、それも悪意のないひっかき傷で未だに苦しんでいる自分にうんざりしていた。

ずっと疑問だった。なぜ女の子だけ足を閉じないといけないのか、女が格闘技をしていると笑われたり怖がられるのか、弟ではなく私だけ家事を手伝ってと言われるのか、家庭内の決めごとの最終決定権が父にあるのか、生理を隠語で置き換えて話さないといけないのか、女子力が無いと女として認めてもらえないのか。いや、疑問だったけど疑問として認識してはいなかった。「疑問に思ってもいいんだ」と気づいたのは、ごく最近のことだ。そこにはもちろん、社会の中でのフェミニズムの運動が大きく関わっているし、それによって世の中の認識自体も、本当に少しずつではあるけれど変化してきていると思う。

だけど正直なところ、疑問に思ってもいいと分かってからの方が地獄だった。なぜなら、それはつまり日常の中の些細なことに対して疑問を抱く、ということになるからだ。広告の表現ひとつをとっても、疑問を感じたその瞬間目を背けたくなる。仲の良い友人の何気ない一言にも身体が硬直するような感覚を覚えることもあって、彼らからは微塵も悪意が感じられないからこそ、そうやって些細な出来事にいちいち反応してしまうことが苦しかった。はっきり言って、モヤモヤの正体を自覚してからの方が生きづらさを感じることは多かった。

画像1

次第に「私が気にしすぎなんじゃないか」と思うようになった。だってきっと相手は悪意もって言ってるわけではないし。些細なことに疑問を抱く自分がネチネチとした粘っこい人間であるような気がした。「私の考え方がネガティブだから、悪い方へと思考が傾いてしまうんかな」、「私の心が弱いから考えすぎてしまうんかな」。そう思うと、少しだけ楽になったような気がした。自分を責めることは辛かったけど、悪意のない他人にモヤモヤとした気持ちを抱くより、ずっとずっと楽だった。

だけどやっぱりモヤモヤは消えなかった。しかも何年も前に封印してたはずの痛みがぶり返した。「私の心が弱いだけだ」と押さえ込もうとしたけど、今度は上手くいかなかった。特にいったん落ち込んでしまうと、いちいちこんなことを気にしてしまう自分はこの社会で生きていくことはできないのだからいなくなった方がましなんじゃないかと思うことさえあった。

実際、フェミニズムのことを馬鹿にする人たちはいる。「女だけじゃない、男だって抑圧されている場面はたくさんある」という人たちもいる。そもそも興味が無い人も大勢いる。「女だからって不利益を被ったと感じたことはない」と言う人たちもいる。正直、彼らの誰にも悪意があるとは思わない。みな素直にそう思っているからそのまま言っている、ただそれだけのことだ。

画像2

では、なぜフェミニズムの運動が起こるのか。なぜ声を上げる人たちがいるのか。それは紛れもなく、そこに苦しんでいる当事者が存在しているからだ。自分がどう思うかとは関係なく、「事実として」苦しみもがいている人たちがいる。社会の中で、どうしようもなく大きな流れに込まれて、どうすればいいかわからなくてただ受け入れるしかなかった、そうやって生きてきた人たちの姿がある。

その事実から目を背けないことは「ネガティブ」なのだろうか。「考えすぎ」だろうか。苦しんでいる人が目の前にいて、それでもフェミニズムを馬鹿にするのだろうか。めんどくさいと思うのだろうか。今この瞬間に苦しんでいる人を差し置いて、自分の権利を主張するのだろうか。彼らの存在を無視することは「前向き」なのだろうか。もう一度、自分にそう問いかける。果たして、そういった人たちの声に耳を傾けることは「偉い」ことなのか。

もちろん、このことを見つめ、考え続けることはどうしたって苦しい。生きづらいと思うこともたくさんある。だけどやっぱり、考えて、話して、変えようとしていくことでしか乗り越えられない。現状維持は、現状維持にならないから。

目を背けないということに関して言えば、それは女性に関する話に限ったことではない。あらゆる差別、社会問題に対して言えると思う。差別が起きて得をするのは、いつだって抑圧する側の人間だ。女性が差別されて得するのは誰なのか、日本社会の中の外国人が差別されて、黒人が差別をされて、障がい者が差別されて、労働者が差別されて、性的マイノリティの人々が差別をされて、得をしているのは一体誰なんだろう。

画像3

「解決できない」と悲観的に嘆くのではない。他人の言動にいちいち口を挟んでとがめたいわけでもない。気にしすぎて何も話せなくなってしまう、そんな状態を望んでいるわけでもない。いつだって、誰だって、当事者になりうる。そう自覚して、ただ目の前の苦しんでいる人から目を背けずにいたい。話すことを、考えることをやめない、ただそれだけのことだと思う。



【さいごに】
もしこの記事を読んだことによって気分を害された方がいらっしゃったらすみません。でも、私はこの記事を消したくはありません。この記事に書いてあるのは、私の生き方だからです。もしこの記事を読んでなにか感じたものがあれば、ぜひ共有していただけると嬉しいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?