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どこだれ⑰ 京都の民藝店で教わったこと


学生時代、京都の出版社で手伝いをしていた。ある特集で「民藝」がテーマになったのをきっかけに、人生で初めて民藝に触れることになった。

当時は大学生になり2年目の春で、初めて1人暮らしをする上で「借りた部屋には自分がものを持ち込まなければなにもないのだ」という当たり前のことを知った頃だった。空の食器棚を開けては「自分で買いそろえないと、食器は1枚もないんだな」と気づき、手を出したのはIKEAや100均の食器だった。プラスチックのお皿は軽くて扱いやすいし、安い食器は割れてもまた手軽に買える。気が楽だった。

取材に同行した民藝店は京都の清水五条にあり、一帯は陶芸や器の数々の店が軒を連ねている。その中に、店はこぢんまりと建っていた。
女性の店主は小柄できりっとした雰囲気で、短く切りそろえたボーイッシュな髪型がよく似合う。「こちらへどうぞ」と椅子に案内される間、店内に並べられた食器の数々に目がいった。ぽってりとした地味な色のマグカップや皿がずらりと揃っている。ふと茶碗に目をやった時、その値段に驚いた。茶碗4000円。小皿3000円。湯のみや大皿などはもっと値が張る。随分高価に感じた。

席に着き、出していただいたお茶はほかほかと湯気を立てていた。注がれている器はもちろん焼き物だ。九州の有名な窯元のものだという。「お茶の銘柄ではなくてうつわの説明が最初にくるあたり、さすが民藝店ですね」と笑いながら、取材はスタートした。
話は店主の生い立ちから始まった。もともと家には民藝のうつわが多くあったが、関心を持つこともなく、大学卒業後はそのまま会社に就職して忙しく働いていたという。そんな時思いがけず大病をして、自分の生活を考えなおすことになった。
「最初に気にしたのが食で、やっぱり食べる物が一番大切だと気づいた。それで料理を勉強するようになったら、今度はうつわに目がいくようになって」
丁寧に料理したものを、特に思い入れのないうつわに盛ることに疑問を持ち、食器を勉強し始めたという。そうして民藝に出会った。
「思えば、実家にもそういう【焼き物のうつわ】っていっぱいあったなと思い当って。スーパーで買ったお惣菜でも、トレーに乗せたまま食べるんじゃなくて、焼き物に移すだけで随分と心持が変わるなって気づいた。それで焼き物に興味を持って、窯元を訪ね歩くようになったら、そこで聞く話がおもしろくておもしろくて」

その土地の土を取ってきて、よく練り、周辺の木々で起こした火で焼く。そうしてできた器に、同じ土地の水や土で育った食物の料理を盛る。だから「同じ土地で作られたうつわと料理は相性がいい」という。
「沖縄と本州では水も全然違う。沖縄の水は硬いから豚の料理と相性がいい。そういう料理を盛るには、ぽってりした沖縄の焼き物がとても合うんです」

目からうろこだった。それまで私は、うつわのことをデザインや色、値段でしか見たことがなかった。しかし、土から考えると、その見方はまるっきり変わる。うつわも、農作物のようにその土地の恵みを受けて作り出されるものだったのだ。店内に並ぶ品々が、急に各地の代表選手のように輝いて見えてきた。

また、こんな話も深く記憶に残っている。「民藝のうつわを取り入れるタイミングっていつがいいと思いますか」という質問に対して、その人は考える間もなく言い切った。
「それはね、絶対幼い時からの方がいいです」
なぜ、という私たちの表情を見て笑いながら、こう付け加える。
「焼き物は高いし、割れたら危ないしってみんな小さな子には使わせないでしょう。でも、安全だからってプラスチックばかり持たせていたら、手の感覚は育っていかない。割れたら『これは割れるんだ』って身を持って知ることができるし、次から丁寧に扱おうと思う。土の重さや質感を感じながら食事をするのっていいですよ。小さい頃から土に触れるのは大事だと思います」

取材のあと、編集者が「これ、友人の子どもにプレゼントするために買います」と小さなコップを買った。梱包を待っているあいだ、私も店内のうつわを眺める。1つひとつに産地と窯元、うつわの名前が記されていた。そのどれもに作った手があり、その地域に住んでいる人がいる。同じ技法でも1枚1枚模様の表情がちがう。見ていて飽きることがなかった。お礼を言って別れたあとも、しばらくうつわのことばかり考えてしまった。

しばらくどころか1か月ほど、食事の度にずっとうつわのことが頭をよぎるので、とうとうお店にもう一度顔を出した。店主の方は笑顔で迎え入れてくれ、私は飛び鉋の模様がうつくしい小鹿田焼のお茶碗と、おそろいの皿を手に取った。併せて7000円ほどだっただろうか。えいやっと気合を入れて購入したことを覚えている。初めて料理を盛った日、洗い物をしていると、指先に模様のでこぼこがあたって心地よかった。その時初めて、「民藝」の言葉の意味が、少しだけわかったような気がした。

いまだにこのうつわたちは私の食卓にある。気づけばもう10年以上の付き合いで、何度落としても割れずに一緒にいてくれている力づよい相棒になっている。