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どこだれ⑥むこうの言葉でしゃべる人たち


昨年は縁あって、漁師と猟師に話を聞く機会があった。読み方はおなじでも、双方の職業はかなり違う。

私が会った漁師の面々は豪快な方が多く、たんと食べるし良く飲んだ。乗組員や漁仲間を大切にする文化ゆえだろう、陸に上がると昼夜関係なく飲み会が頻繁に開催される。顔を真っ赤にして大きな声で話す姿は、海の男のイメージそのものだった。
一方の猟師の面々は、どちらかというとお互いあまりつるまない印象だった。もちろん猟の際に協力するし捕れ高をわけあうのだが、頻繁に飲んでいる様子はない。聞くと、(地域にもよるが)初捕獲や猟の終了時期に区切りとして飲みの場を設けることが多いそうだ。これまた孤独に山を歩き回っている猟師のイメージと合致する。

一方で、話を聞くうちに両者に似ているところが多くあることも知った。中でもおもしろかったのは、双方とも自らの生業を「地味な仕事だよ」と話すところだ。

「ばーっと水揚げするところは派手で格好いいじゃないですか」と一人の漁師に言うと、「何言ってんの。あんなのほんの一瞬よ。漁師の仕事って言うのは、9割準備と片付けよ」と話す。朝早くに海に出て、漁を終えたらあとは網を手入れして、乾かして、翌日の漁に備える。どの領域にどれくらいの仕掛けをするかなど作戦を考える時間も合わせると、なるほど「華の時間」である水揚げは全体のほんの一部に過ぎない。

猟師も似たことを言っていた。猟の解禁日が近づくと何日も前から山を歩き回って、どこにどの程度の罠を仕掛けるか考える。決めたら罠を手作りして仕掛けに行く。猟期になったらかかっているか毎朝確認しに回る。
銃で獲物を仕留める瞬間は、こうした時間の中のほんの一瞬に過ぎない。「ほとんどが準備」の地道な仕事なのだ。

「へえー両方とも大変な仕事だなあ...」と聞いていたら、もう一つ興味深い類似点に気がついた。漁や猟の話をしている時、双方ともいつのまにか「むこうの言葉」で話しているのだ。

岩手県で鮭がほとんど獲れなくなっているという話を聞いていたとき、その漁師が突然「だってさあ〜もうあっついんだもん、海水が」と言い始めた。そうかあ、漁をしていてもわかるくらいに熱いんだなあと思って聞いていたら、「せっかくこっち(岩手)まで泳いできたのにさ、こんなに熱いんじゃやってられないよ。仕方ないからもうちょい涼しい上の方行くか〜って、泳いで北海道まで行っちゃう」と言う。
あれ、もしかしてこの人は今、鮭の言葉で話している...?!
ほかにも「牡蠣としてはもうちょっと冷たい水の中で大きくなっていきたいわけよ」とか「南の方にしかいなかったのにさ、なんだかあったかいなあ〜って泳いでたらこっち(岩手)まで来れちゃったわけ」と太刀魚の言葉を話している時もあった。
それを聞きながら、なんだか感動してしまった。この人はいま、主語をころころ変えながら、漁師と海の生き物を自由自在に行き来している。それは何より「獲られる側」のことを日々考えている人ならではの語り口だった。

そしてこの口調は、山の猟師にもある。罠にかかって1日経った猪が生きていたのを発見し、仕留めた後の言葉が忘れられない。
「いや〜一日中この状態で放置されるのはつらいよ。寒いし、お腹空くし、何より『やっちゃった〜(罠にかかっちゃった)』ってテンション下がるし」。
そうか...テンション下がるのか...。なるほどと思った。「痛そうだなあ」とか「つらかっただろうなあ」という同情のような感想はあっても、私の中から「テンション下がるし」は絶対に出てこない言葉だった。

漁師も猟師も、相手の言葉で自然と話してしまう程に、対象のことをよくよく考えているし、わかってしまう。それは何より、自分が対峙する命のことを長い準備時間をかけて考えてきたからこその、職人の語り口なのだと思う。