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◎道後温泉クリエイティブステイ日記②後半


白鷺珈琲で昼食をいただいて足湯に浸かった後、先程案内いただいた商店街の中のお店をいくつか回ることにした。坊ちゃん団子の元祖「つぼや」に炭酸せんべいの「玉泉堂本舗」、昔ながらのお土産さやん。お土産屋さんに至っては、「これいつからお店に並んでいるんだろう…」というような雑貨がたくさんあって興奮した。道後の風景を描いたポストカードを何枚かレジに持って行くと、「これは色が褪せてるから無料でいいよ」と言ってもらう。とてもフランクな感じ。


道後に来て驚いたのが、行く先々どこでも、対応して下さる方がものすごく愛想がいいということだった。温泉街なので接客に慣れているのもあると思うが、ここまですべて気持ちがいいのも珍しい。どこの観光地でも、何かしらひとつは「接客があまり好きじゃないのかな」「観光客が来過ぎてうんざりしているんだろうな」みたいな所があるのだけれど、道後ではない。お風呂の受付の方も、お土産屋さんも飲食店も、接客が優しい。コンビニの店員さんまでもが相手の顔を見てしっかりとお礼を言うのにはびっくりした。道後が特別こうなのか?それとも愛媛の人は皆人懐っこいのだろうか?

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午後からは、道後中心街から歩いてすぐの湯築城跡を散策することにした。
ここでも個性豊かなガイドさんたちにお会いすることになる。湯築城資料館では、入口にガイドさんが待ち構えていて、入ると「待ってました」とばかり色々説明してもらえる。「まずは湯築城のことがよくわかるビデオがありますので、そちらをご覧になりますか?」と食い気味で進めてくれるので、早速見ることにした。確かに短時間でさっくりとわかる内容だ。湯築城は河野氏という伊予国を治めた人物が作った、いわゆる天守閣のない平山城だ。近年行われた発掘作業で上級武士の居住区や、遺物などが大量に出て来たらしい。確かに、展示してある発掘物の数がすごい。インドや韓国などから来た焼き物があるほか、茶道や華道の道具が発掘されていることから、文化的素養が高く、交流も盛んだったことがわかる。連歌を詠んで士気を上げ、戦いに挑んだこともわかっているそうだ。

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ビデオの後、河野氏の没落までの250年余りを30分ノンストップで説明してもらい、脳が飽和状態になりながらもなんとかメモした(一族はどの人物も名前に「通」が入っており非常にややこしい)。河野氏没落後、江戸に入り国から「一国一城令」が出たので廃城になったのだという(松山城があるから)。ガイドのKさんは「なんでここじゃなくて松山城が残ったんか、っていうのが私はずっと疑問で、でもきっとあそこは平野の真ん中やったから、人が暮らしやすかったんやろね」と言っていた。明治に入り陸軍が植物公園にしたり、その後県が動物園にしたりと様々な変遷をたどっているそうだ。
「私もね、小さい時は…7歳くらいかな?ようここの動物園に来よったですよ」と言う。しかし動物園が移築することになり(それが今のとべ動物園※以前話題になったしろくまのピースくんがいるところ)、その後調査すると歴史的に価値の高いものが次々発掘されたということで、ここを歴史公園にすることになったのだ。
「でもね、なかなかできんかったですよ。それが、やっぱマスコミは強いね、朝日新聞の一面に道後には埋蔵物がたくさんあるっていう記事が出て、それがきっかけで注目されて、ぐっと計画が進んだんやね。他にも国の文化政策に近い政治家がいたとか何とか…」
そして平成14年に歴史公園になり、めでたく国史跡になったということだ。

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もともと750年頃にお湯が沸いたといわれている道後、聖徳太子の時代からあり、海に近かったため朝鮮に攻める時にも疲れをいやすためにここに来たという。その後河野氏の台頭で(その時代に盛んだったということもあり)連歌をはじめとした和歌が盛んになり、明治になって正岡子規で俳句が有名になった。現在でも、いたるところに「俳句ポスト」なるものがある。毎年盛り上がる「俳句甲子園」もあるそうだ。道後や松山一帯は、脈々と受け継がれてきた文化が色濃く残る土地なのだと思う。


ここでも、伊佐庭如矢(いさにわゆきや)の名前を聞いた。現在の道後温泉本館を作った人で、道後の発展に尽力した人物だ。彼の頃に身分制度が徐々に廃止され、先に聞いた身分によって入れるお風呂が違っている状況は解消された。彼の功績は大きく(かかった費用も大きく)、本館の近くには彼の石像がある。
この湯築城の説明で驚いたのは、昔の屋敷を再現するのにかなりの技術が投入されているということだ。固定する釘も竹釘と言って職人の手作りだし、基礎になる石に柱の木をぴったりとつけるための「ひかりつけ」という作業は、細かさに思わず映像に見入ってしまった。また、全体の調査は完全には終わっておらず、のちの時代の調査のために遺構の上に土嚢を積み、その上に土を盛って再建しているのだという。後世の調査のことまで考えて建築を進めているなんて、なんだかロマンのある話じゃないだろうか。

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みたいな話を聞いていたら、この時点で2時間経っていた。
しかしガイドのKさんはみじんも疲れた様子はない。むしろどんどん言葉が出てきて途切れることがなく、私なんかよりもずっとお元気だった。
Kさんは65歳で働いて会社をリタイアし、「ボケたらいかんしなあ」とコンピュータ(この年齢の方多くはインターネットのことを「コンピュータ」とおっしゃることを今回知った)で調べてボランティアを始めたそうだ。伊予市に住まれていて、ここまで40分ほどかけて車で通っているという。道後は元々好きで、歴史的にも文化的にも雰囲気がいいなあと思っていたらしい。曰く「この活動することになってから少しずつ教えてもらったり勉強したりして覚えていって。湯築城のことは、結構資料がなくてね。書いている人によって解釈違うとかあるから、いつも『と言われています』『みたいです』って言うようにしとる。断定では言えない」と言う。


そんな話をしていたら、奥からもう一人のガイドの方が出て来た。
「この人は僕の大先輩やけん」とKさん。「そんなことないけん!」と嬉しそうに否定するガイドさんは、Eさんと言う。
Eさんは、こうしてガイドをするまでは道後どころか愛媛にもゆかりがなかったと言う。それまでは大阪や神戸の商社に勤めていて、その関係で外国にも多く行っていたことから英語が話せるため、このボランティアに来てほしいと声がかかったらしい。「コロナの前には外国の方もよう来てね。Photo Free!って言ったら喜んでくれて。資料撮った後で、最終的には僕と一緒に写真を撮るんよ」と笑う。KさんとEさんは一緒にゴルフを楽しむ仲でもあるらしい。ボランティア同士、仲がいいのがよくわかる。「家内に、ここに来る日は背中が楽しそうやって言われる。でもほんまにね、ぼーっとしてても1日、こうしてお話ししてても1日と思ったら、やっぱりこうやってガイドができてる言うんは幸せやねえ」。Eさんの隣でKさんもうんうん頷いていた。確かに、老後にこうした仕事や居場所があるのはとてもいいなあと思う。そして、歴史の話はもちろんなのだが、ガイドさん自身の人生の話がおもしろすぎて、俄然ボランティアガイドという存在に興味が湧いてきた。Eさんは何と82歳。土地の歴史があって、その上に自身の歴史があって、その話を一遍に聞けるなんて、なんて贅沢なんだろう。

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結局その資料館に3時間いた。さすがに疲れたので、公園内の武家屋敷や湯釜を見た後、展望に上って一服した。つぼやの坊ちゃん団子が、とてもおいしい。大きさも甘さも丁度よく、確かにこれなら漱石が7本?平らげるのも頷ける。

その後は四国に住んでいた方から「地元のスーパー」と教えてもらったFUJIに行き、便箋などを購入。レジ前で順番待ちをしていたら、おばあちゃんがレジの担当者に「すまんねえ、早く歩かれへんのよ」と話しかけていた。


「足怪我しとるけんな」
「そうなんですか」
「そうそう、ここの、ここのところ(見せようとする)」
「あ、はい(若干後ろに並んでいる列が気になるが、去らないおばあちゃんに言うに言えない)」
「爪がな、巻き爪で歩くと痛いねん」
「ああ~そうですかあ~」

レジの人は気が気ではない感じだったけれど、私は、そのおばあちゃんを決して邪険に扱わない接客に感心してしまった。やっぱり愛媛の方がみんな優しいのかもしれないなあと思う。


夜は、大衆浴場の「椿の湯」に行った。
楕円形の湯船を囲うように洗い場がずら~っと周りに並んでいて、一人ひとりの背中を見ていると圧巻だった。天井も高く心地よい。大衆浴場なだけあって、長居するようには作られていないので入れ替わりが激しい。
何よりよかったのが、脱衣所に、「座ると必ず会話が始まる長椅子(勝手にそう呼ぶ)」があったことだ。会話の内容を察するに、たぶんお互い名前も住んでいる所も詳しく知らないのだと思う。しかし、よく見る顔だと認識しているために、顔を合わせると挨拶をし、会話が始まる。中でも「ああそうか、あなたがいるってことは今日水曜日やったな」という挨拶はなかなかおもしろかった。

「今日もあの人、玄関のとこでずっと待ってはったな」
「そうやったん、毎日やな。ほんま、奥さん大変やなあ」
「何でやろなあ、あんな亭主捨てたらええのにって私やったら思ってしまうけん」

そんな会話があったかと思うと、さっとさよならを言って一人が去る。
残った一人は、次に座った人とまた会話をはじめる。

「あら、今日はえらい遅いね。忙しかった?」
「忙しかったよ~結構戻ってきたけん」
「そうやねえ。そういや、さっきまであの人おったんちゃう?」
「おったよ。なんかのぼせたゆうて、赤い顔してたわ」
「大変やなあ」

その会話も終わって、また新しい人が来る。椅子の大きさによるものなのか、なぜか毎回二人の会話になる。


「あの、火事の事件たいへんやったなあ」
「火事?」
「知らん?火事で家が焼けてしまって、小学生二人が亡くなったゆうて」
「知らんわあ。かわいそうやねえ」
「そうそう、結局おじさんがやったんやないかって言われて…」
「ええっ」
「行方不明になってて、いま警察が探してるゆうてね」
「あらー…大変やなあ」
「なんやろね、家族の事件が多いねえ、最近」
「そうやね。家族同士でいうの、よう聞くけん」


その話をぼーっと聞きながら、もしかしたら、江戸やそこらの時代から此処ではこうした会話が行われていたのではないかと思った。
どこかで起こった事件や事故、ご近所のスキャンダルなどが、こうしてお湯場から口伝えに広まっていったのだろう。お湯のあるところは、今も昔も変わらず情報交換所なのだ。


そんなことを考えながら、ほっこりした気持ちで椿の湯を後にした。
今回の道後の滞在は、どうやら人に会って話を聞きまくる、というものになりそうだな、と夜風に吹かれながら思った。


(③へ続く)