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〇もうどうしようもない日の塩


これはもうどうにもならないんじゃないか、と思った。
人生には暗い部分にしか目を向けられない時期があって、でもその度何とかして乗り越えているからこうして今まで生きてきた。
しかし、今回だけはいつもと違った。

身体がぐずぐずに疲れている状態で、目の前に溜まった「やらなければならないこと」のために考えごとをしていたら、過去のトラウマまで引っ張り出して脳が勝手にマイナス思考に陥ってしまった。
しかも、考え方の根本は結構根深いところにあることに気付いてしまい、解決のめどが全く立たなくなってしまった。

どうしよう、どうしよう、

人って悲しいと本当に胸の辺りがぎゅーっと縮まって痛くなってくるんだなあ、みたいな呑気なことを一方で考えつつも、こちら側では涙が止まらない。
こんなに大きめの波は久しぶりだったので、前回までどうやって立ち直っていたのかを全く思い出せなかった。思い出せないので、世間で言われている方法を片っ端から試してみる。

気分転換に本を読む、たくさん眠る、散歩する、おいしいものを食べる。
でも、本を読んではトラウマに結び付け、眠っては「なんでこんな時間まで寝てしまったんだ」と落ち込み、散歩をしては他人の存在がやっかいに感じられ、それまでおいしいと思っていたものをおいしいと感じられなくなっていて愕然とした。

なにをやっても自然と涙が出てくる。これはやばい。

しかし、それでも締め切りはやって来る。
目の前の仕事を通常の4倍くらいの時間をかけて悲しい気持ちで片付けていたとき、ふと元気な頃にたまに行っていた温泉の存在を思い出した。


行ってみようかな、と思った自分にもう一人の自分が言う。
「こんなにやること残ってるのに?そんなところ行っても一時の慰めにしかならないよ」
そうだよなあ、と思いながら、それでも何だかもう何をやってもダメな気がして、ならばいっそ、と回っていない脳で車を走らせた。

運転している最中もずっと悲しく、「そういえば教習所で、精神的に不安定な時は運転を控えましょうっていうアナウンスあったな…」と思い出す。
この世のドライバーみんなの精神が安定している時なんてあるのだろうか、これから先運転しなければいけない時に毎回きちんと精神が安定することなんてあるんだろうか、と当時学生の私は思ったものである。
全然精神安定していなくても運転しています、と泣きながら運転する現在の自分が言う。

田んぼの真ん中にぽつんとあるその温泉は、地元住民が毎日のお風呂場として来る質素なところだった。お風呂も、広い露天(ぬるめ)がひとつと、内湯(熱湯)がひとつしかない。

暗いことばかり考えすぎてぼーっとした頭で脱衣所から洗い場へ入る。
住民の人たちが笑顔で話しながら身体を洗っていた。楽しそうだなあ、と思う。洗髪しながらそういう声を聞いていると、なんだかまた哀しくなってきた。おまけに露天風呂へ向かう扉が半開きになっていて、冷気が容赦なく流れ込んでくる。
扉を閉めるつもりが、なぜだか「えいや」と思って外に足を踏み出し、そのままどぼんと露天に身を沈めた。

目の前にはお湯からぶわ~っと圧倒的な湯気が立ち、それは壁の注意書きが何も見えなくなるほどに濃い。その湯気を上へ上へと目で追っていくと、爛々と光る月があった。

「うわあ」

思わず声が出る。
なんて綺麗なんだろうと思う。

ここの温泉は、地元の人たちが農作業をしていたらたまたま見つけた源泉からなっているらしい。岩の間から絶え間なく流れ出ているあたたかい温泉は、こうして浴槽に広々と満たされて、蒸気になって空へのぼっていく。そしていつか、遠くないうちに雲になって、雨になってまた地上を濡らす。

半身をお湯から出してみる。
自分から立ち上った蒸気が、空にのぼって消えていくのを眺める。

その時、私は、自分が自然の中にいることを思い出した。
自分が悩んでいようがいまいが、常にこのお湯は湧き出ていて、今、こうしている時にも循環は続く。そのことが、なんだかとても嬉しかった。

ちろっと舐めたお湯は、しょっぱく甘い塩分を感じる。大地の味だった。


その温泉の受付には「源泉を煮詰めて煮詰めて、できあがったおいしい塩です」と書かれた塩が売っていた。
それを買って帰り、家で炊き立てのごはんでおにぎりを結んだ。
塩をまぶして頬張ると、しっかりとしょっぱい。

「もう大丈夫だ」という気持ちがした。


(食欲をさがして㊹)