Silver Lining 第五話



 砂埃を纏った風が黄土色の街を駆け巡り、人々は顔を顰めて足早にどこかへ向かう。都心から大きく離れたこの地には、急ぐ用がある奴なんてそうはいない。この街の誰もが役者で、見逃す演技に長けていた。
 
 街の人間は皆、無視していた。ゴミ捨て場の側で泣きじゃくる見窄らしい少年を。
 
 
 
 
 その日、シルバはいつもより早く目が覚めた。まだ日も昇っておらず、汚い鳥の鳴き声も聞こえなかった。
 
「こりゃまた嫌な夢だなあ」
 
 あのゴミ捨て場の記憶は、彼にとって簡単に拭えるものではない。けれど、ひどい交通事故が生み出す怪我のように、一生引きずるものでもないのだ。
 
 シルバは薄いベッドから起き上がった。茶色になったシーツが音を立てて地面に落ちると、ゴキブリが二匹隠れるように部屋の隅へ入った。シルバはあくびをしてテーブルの上に置いていた固いパンを引きちぎり、彼らの元へ投げ捨てる。理解し難い同居生活だ。
 
 ベッドの側には垢だらけの窓がある。シルバがここに来てから、いや、もしくは、それよりもずっと前から、掃除されていないかもしれない。
 
「なんか……、太ったか?」
 
 シルバは頬をひねり、次に腹回りを撫で、最後に首に触れた。気がつけば身長は5フィートと4インチにまで伸び、骨も肉も大きくなった。それでもシルバはまだ華奢で、痩せこけた人参のような見た目をしている。
 
 今日は日曜日、シルバは眠い目を擦って階下へと降りた。
 
「おはよう、神父様」
 
 階段を降りると、シルバには馴染みの光景が広がる。まだ誰もいない教会の大きな十字架の下で、一人の老人がじっと祈りを捧げていた。
 
「シルバ、静かに。神は見ていますよ」
 
「はーい」
 
 シルバは神父の隣に立って、ゆっくりと瞼を閉じた。古い教会の正面には大きな十字架が、その両隣には神の絵が描かれている。シルバは見なくとも、それらを脳裏に描き出すことができた。どの色を使ってどう吹きかければいいか、神をどうスプレーで描けば良いか、そんなことばかり考えていた。
 
「あなたがこの屋根の下で暮らし始めて、もう五年が経ちますね」
 
「屋根の下って、本当に屋根裏なんだもん。困っちゃうよ」
 
「それでも、ゴミ捨て場よりはマシでしょう?」
 
「まあ、そうだけど……」
 
「現状に不満を言う人間よりも、現状に感謝する人間を私は尊敬します。今日もミサには出てくださいね」
 
「言われなくても出ますよ、じゃないと追い出されちゃうんだから」
 
 神父は微笑み、ゆっくりとシルバの正面に立った。
 
「シルバ、あなたは希望という言葉を、どのように捉えていますか?」
 
「どのように捉える?」
 
「あなたにとって、希望は何かということです」
 
 神父はこの街の人間とは異なった肌の色をしていた。アクセントにも少し癖があり、言葉や形容詞の選び方は海の香りがする。
 
「難しいことは分からないけど、俺はただ師匠と……」
 
 ある単語を口に出してから、間抜けなシルバはようやく察した。神父は彼の予想通り苦い顔をして、静かに諭した。
 
「シルバ、彼のところへ行くのは止めなさいと何度も言ったでしょう。街にスプレーを吹きかけるなんてことをして、神が許すとでも?」
 
「でも、楽しいんだよ?」
 
「楽しいことではなく、正しいことをしなさい。あなたがするべきことはただ一つ、教育を受け神の導きを信じることのみです」
 
 渋くなるシルバを他所に、神父は言葉を続ける。
 
「神に背くと、あなたのご両親のようになりますよ」
 
 昨夜見た夢が、また脳裏に浮かぶ。シルバは唇を噛み締め、ゆっくりと俯いた。足元にはステンドグラスの芸術品が、気高く神への道程を彩る。
 
 世界一のスプレーアーティストになる、彼の夢の前には神が立ちはだかる。
 
 
 
 
「神父様は頭が硬いぜ~」
 
 シルバは、教会の外に出て溜息をついた。街にたった一つの丘の上に立つ教会からは、出来の悪い景色を一望できる。シルバは掌についたスプレーインクに目をやり、また一つ息を吐く。少し前に描いた、『最後の晩餐』のオマージュを浮かべる。
 
「あんなの、描いちゃダメなのかな」
 
 シルバの声は背の低い雑草を這うように、風と共に去った。その声を聞いた人物が、一人だけ、たった一人だけ存在した。
 
「ダメなことなんてないさ。僕の国では、神は八百万ほどいるし」
 
 
 脊髄で反射し、シルバは声のする方を向く。インクがついた右手の掌の、少し先に見慣れない男がいた。シルバがこの街に来てから一度も見たことないような肌の色をしていて、黒い髪が生温い風に靡いている。黒の瞳は光を見せぬまま、じっとシルバを見つめていた。
 
「君が噂の、色塗り屋かい?ちょいと手を貸してくれよ」
 

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