Silver Lining 第四話

「ウィークデイなんてつまらないさ~」
 
 右手に大きなスプレー缶を持ったシルバは、黄色い霧を噴射させながら口ずさんでいた。
 
「真っ黒な顔を汚してさ、お前らみんなどこへ行くんだい~。あいつも仕事、お前も仕事、俺はタバコで一息さ~」
 
「バカな歌はやめろ。ただでさえ音痴で鼻につくのに、もっと腹が立つ」
 
「え~、いいじゃん。師匠がこの曲教えてくれたんだよ?」
 
「ただラジオで流れてただけだ」
 
「この家のラジオで流れたんだ、それはもう師匠に教わったのも同然だよ!」
 
 会話中でも、シルバは手を止めなかった。黄色いスプレーを細かく吹きかけては中身を確かめるように大きく振る、その繰り返しで彼の対峙する鉄板の中央には大きな楕円ができていた。円の左半分のみ、黄色く塗られている。老人は少年の背中をじっと見つめていた。
 
 二人が息を潜めているのは、大きな工場の跡地だ。屋根は一部剥がれていて、仕切りはなく、地面や壁には汚れや火花が飛び散った跡がいくつも残っている。老人は、十年以上前にこの跡地を破格の安さで買い取った。買い取ったと言うよりも、処分を任されたと言う方が正しいかもしれない。
 
 自宅となったその跡地には、仕切りがない。ワンルームと言ってしまえば響きはいいが、要するに“工場”の名残りが強すぎるのだ。入口を一階とすると、左手の奥側にいくつか階段があって、そこを登ると踊り場のような広いスペースがある。以前は使われなくなった機械を配置していたが、今ではシルバの“展示場”となっていた。地下室もあるが、シルバは立ち入ることを禁じられている。そこには老人の書斎があり、そこで倒れるまで酒を飲むのが彼の習慣だった。
 
 それ以外の生活は全て、一階に集中している。シャワールームもキッチンもリビングも、それらしきものは全て繋がっていた。
 
「そういえばさ、この前やってきた女の人、誰だったんだろうね?」
 
 シルバは徐に師に語りかけた。
 
「そんなもん知らん、制作に集中しろ」
 
「してるじゃないか!今もこうして作品に向き合ってるし」
 
「口より手を動かせ、バカたれ」
 
「はいはい、やりますよ~」
 
 気だるけな口調とは裏腹に、シルバの右腕は迷いなく彩りを加えていく。滴る汗を左腕で拭うと他のスプレー缶を手に取った、視線は一度も揺るがない。ボロボロになった工具箱のどこに何色が入っているか、体で覚えているからだ。
 
 オレンジ、レッド、ブラック、カーキ。様々な色を迷いなく吹きかけると、黄色い楕円は立体感を増し油絵のような重厚感を手にした。その楕円の隣に、今度は白を吹きかける。その上にはグレーを、異なるトーンのものを何種類も使った。
 
 シルバの瞳は瞬きすら許さず、その工程が終わる頃にはすっかり充血してしまっていた。
 
 
 
 
 
「ふい~、ひとまず終わり」
 
 声を発した時、シルバの額には大量の汗が滴っていた。硬いタオルで顔を拭き少し離れた位置からじっと作品を見つめると、また異なる姿を見せてくれる。シルバはその瞬間が、たまらなく好きだった。
 
「すっげえいいじゃん!やっぱ天才だなあ」
 
「つまらん自賛はやめろ、粗だらけだ」
 
 老人は重い腰をあげて、スプレーのかかった板にキスをするような近さで向き合った。
 
「配色が悪い。後先考えず色を足すから、グロテスクな立体感に仕上がっている。具材一つ一つをイメージして描いたか?カレーは温か料理だろう?温度や湯気を意識して描いたか?詰めが甘い。ここだって、よく見てみろ。カーキと赤色が……」
 
「あー、はいはい。分かりました!やり直します!」
 
 シルバは口を大きく下げて、黒い霧でバツ印を描いた。
 
「師匠は厳しすぎるんだよ、カレーって分かるんだからいいじゃん」
 
「お前の描いた看板で店の売上が変わる、店の売上が変わればそいつの食う飯が変わる、食う飯が変われば人が変わる。よく覚えとけ」
 
「それも聞き飽きた!……ったく、師匠はいつも厳しいんだ」
 
「この街をお前のアートで埋め尽くしたいんだろ?そこらのガキとは違って、それで金もらってるんだ。責任持て」
 
「……はい」
 
 老人の重い叱責を少年はバネに変え、大きく息を吐いた後すぐに新しい板を取り出した。また塗料が吹き出す音がして工場跡地には似合わない静寂が、二人を包む。シルバの背中をじっと見つめた後、老人は打って変わった弱々しい声で言った。
 
「シルバ、お前は……」
 
 その言葉を遮るように、老人の脳裏にはある言葉が蘇った。
 
 
『あいつと長くいると、ストレスが溜まってぶん殴りたくなりますよ。僕たち親が言うんだから、間違いない』
 
 
「ん?なに?」
 
 シルバは視線を板に向けたまま、呼びかけに応えた。
 
「……いや、何もない」
 
 老人は書斎へ退き胸にある言葉を飲み込むように、ウィスキーを飲んだ。腕が細く痣だらけで、ゴミ捨て場で泣きじゃくる五年前のシルバを思い浮かべながら。
 
 

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