50歳の父親が一発で寝たきりの老人になり感じた生と死
何か自分のその後の人生や自分自身を大きく変えてしまうショッキングな出来事が起こると、その出来事を境に自分のなかで人生が大きく「それ以前」と「それ以後」に分かれる。
私にとってそれは未婚で彼氏でもない人の子どもを妊娠したことと、もう一つ、父が倒れたことだった。
ちょうど3年前、大学4年の秋に父が倒れた。くも膜下出血。なんの前触れもなく、まさかの出来事だった。突然すぎた。夜から朝にかけてバーでバイトを始めたばかりだった私は夕方寝起きのボーッとした頭のまま、母からのLINEを見て頭が真っ白に、思考がフリーズしたのを覚えている。
すぐ新幹線に飛び乗り駆けつける気持ちでいっぱいだったけれど、ちょうどコロナ禍の真っ最中、行ったとしても会うことはできず、帰るにしても検査を受けなければいけないからすぐに動くことはできなかった。この何もできない不甲斐なさや動きにくさも苦しさを倍増させた。その日の夜は掛け持ちしていた居酒屋のバイトに出たものの、何をするにも上の空、気分が暗く、落ち着かなかった。何より、この気持ちのやり場がわからなくて、寄り添い合えるようなパートナーもいなくて、一人泣くしかなく、ただただ自暴自棄な気持ちになっていた気がする。
父は倒れているところを偶然祖母に発見され救急搬送、若さゆえに助かり(高齢だったら諦めていたところ、若かったため手術する選択肢があった)父の手術は無事に終わった。私の検査も済み陰性の結果が出たため、家族のもとへ急いで向かう。ー向かう途中「なんでどうしてまさか」が頭の中でグルグルし半分夢みたいな、放心状態だったー帰ると、同じく見たこともない放心状態の様子の祖母(父の母)がいた。久しぶりに帰ってきた私に目をくれる余裕もないほど、参っている様子だった。父の妻である母は冷静だった。
父はその時ICUにいて自発呼吸ができるか否かの境目の時期だったので、祖母と一緒に父が植物状態にならないよう、毎晩お祈りをした。心配でたまらなくて近くにいたいのに、病院に行くこともできず、ましてや会うこともできず、病院からの伝言を待つしかできないのがもどかしく辛かった。
お祈り効果あってか知らないが、人工呼吸器がとれ、父は自発呼吸ができるようになった。これで命に別状はなく、一つ峠を乗り越えたとみんなで安心した。が、実際の父は、自分で歩くことも排泄も生活全般のことができず要介護状態、記憶も曖昧で自分と家族が何歳だったかもわからず、ご飯を食べたことなどもすぐ忘れてしまい、以前とは変わり果てた姿と人格になっていた。前頭葉が破損し、人格や人柄が真逆に変わってしまった「フィニアス・ゲージ」を思い出させるような状態だった。
やっと面会に行けると楽しみにして行き、初めて父を目にしたときはショックだった。涙を堪えるのに必死だった。車椅子に縛り付けられ、髪は真っ白になり、やさしかった目はぎらついて、やせ細っていた。それだけなら全然いいのだけど、会話ができない。コロナ対策で置いてある透明の仕切りをバンバン叩いたり、いきなり強く掴んできたり、「生意気だ」とか言ってきたり、怒りっぽく、子どもみたいな仕草と口調になっていた。かろうじて家族の誰が誰かは覚えているようだけど、以前の父はもうここにはいない。その時私の中で「もうあの父は死んでしまった」という事実がずしんとのしかかってきた。この状態=もう父が死んでしまったと同然と捉えることしかできなかった。
父はそれからずっと介護施設で寝ている。おじいちゃんみたいな容貌になってしまい、面会に行くたびにショックが大きく、毎回泣きそうになるのを堪える。(最近やっと泣かずに会えるようになった)辛くなるし、受け入れ難くてこの2年でそんなに回数も行けていない。本当はもっと行くべきで、行って、記憶とか心に刺激を与えてあげるべきなのに、自分のしんどさを優先して足が向かない。父のために地元に戻ってきたのに 苦笑
父よりももっと年上の老人たちが口を開けて寝ている部屋で、父も同じように横たわり、ベッドに縛られ(勝手にベッドから落ちてしまうことが多々あったので)オムツを履きそこで毎日を過ごしている。肩にはフケが溜まり、ベットは黄ばみ、子どもみたいな表情と仕草に返ってしまった父がそんな状態で1日中じっと寝て過ごしていることを思うと言葉が出てこない。
50歳になったばかりだった。ちょっといい車も買って(念願でやっとで嬉しかったと思う)小さな会社の社長にもなって、人生後半、これからって時だったと思う。父はあんまり家事も子育てもしなかったし、家族に対して無関心というか放任主義というか干渉しないというかめんどくさがりというか放置気味というか、面倒を見てもらった記憶も数少ないし、インドアの競馬好きで家族で出掛けた思い出なんて数えきれるほどしかないし、母も幸せそうではなかったから、恨みたい気持ちもあるけれど、いざ倒れると、私は父のことをちゃんと好きで、父なりの愛情も私なりにちゃんと感じてたんだなってことがわかった。父が元気でいないことがー内臓は元気だから命に別状はないし、長生きもできるけど、あの状態を「生きている」って言えるのか。「生きながら死んでいる」の方がしっくりくるーこんなにもダメージを喰らうものなのかってことも。死んだのと同じくらいのショックがある。それくらいショックだった。父は死んではいないし、まだ生きているけど、自分のなかでは勝手に命日があると思っている。それだけ変わってしまったから。以前の父はもういないから。二度と戻ってこないから。
なんなら、死んだ方がまだ受け入れやすかったかもしれない。気持ちの整理がつけやすかったかもしれない。ショックに軽いも重いもつけたくないけど、まだマシだったかもしれないと思う。辛い父の姿を目にしなくて済むから。生き延びただけでありがたいみたいなことをよくいうけど、この場合は実際どうなのかわからなくなった。父のことを思うたび、目にするたびに、父は生き延びてよかったのか?あの時発見されて良かったのか?そのまま死んだ方が幸せだったんじゃないか?と考えずにはいられない。
家で看た方がいいことに間違いないのだけれど、半端な気持ちじゃできない。赤ちゃんの世話の何百倍も大変なことで、だから介護士の人たちを心の底からすごいと、尊敬するし感謝している。母が父に「家帰りたい?」って聞いたら頷き「でも大変でしょ」と言ったらしい。自分の状況をわかってるってこと?ー自分の状況がわかってないからまだいいけど、わかってたら本人たまらないだろうねって祖母たちが話してたーこの前母が「母ちゃんが先に死んで、父ちゃんが生き残る場合も全然ありうるからね」と言ってきた。毎月入院費が20万かかる。怖くなった。死ぬより悲惨な状況じゃないかと思った。
倒れたばかりの頃は、なんで倒れたとかー遺伝、生活習慣、お酒、ストレス、栄養ドリンクの取りすぎ、、、? こうしていれば、ああしていれば、もしかしたらーばっかり考えたりして、一緒に悲しんで協力するべきはずの母や祖母を責めていた。さっきも言ったように心のやり場が迷子になって、父の状況に引っ張られすぎて、自分がどうするべきかもどうしたいかもどうありたいかも見えなくなって、状況の受け止め方や消化の仕方がわからなくなっていた。
ともかく、3年経ってやっと今、言語化できて、受け入れられる準備ができた気がする。こういうことが起こると、原因や理由、たらればをどうしてもずっと考えてしまうこと、そうでしかいられないこと、そうして気持ちを慰めるしかないこと、どれだけ年数を経てもどこかにそういう思いは消えないこと、旦那さんを突然亡くした大先輩と話していて、深く共感しあった。
これからはたくさん面会に行こうと思う。娘を連れて行けないのがすごく残念。いい刺激になると思うのに。いつも娘の動画を見て「かわいい」って微笑んでいる。この間行った時は「愛嬌たっぷりだな笑 モテるんじゃない?」とか「何がしたいんだコイツは笑」と言って、以前のように私の大好きなやさしい笑顔で笑っていた。ー私は父の笑顔が大好きだった。父に対するたくさんの不満をその笑顔ひとつでぜんぶ取り払ってしまえるくらい。父は確かに子育てに無関心だったし、母にとってはよくないパートナーだったかもしれないけど、自分のすべてを包み込み、まるまる肯定してもらえたような気持ちにさせられるあのあたたかいまなざしだけでもう、娘である私は十分に愛を感じていたのかもと思うーでも毎回「誰これ笑」って言う。私の子どもとわかると毎回驚く。簡単な受け答えと繰り返しのやりとりしかできないけど、こういう反応が面白いのが今は救い。