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【コラム】キリスト教なら資本主義の常識を打ち破れる!?アウグスティヌス「告白」で学ぶ価値観の破壊【連載3回目:2024/05/23】

著者プロフィール:

 抜こう作用:元オンラインゲーマー、人狼Jというゲームで活動。人狼ゲームの戦術論をnoteに投稿したのがきっかけで、執筆活動を始める。月15冊程度本を読む読書家。書評、コラムなどをnoteに投稿。独特の筆致、アーティスティックな記号論理、衒学趣味が持ち味。大学生。ASD。IQ117。

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 キリスト教における、根本的な考えとして、「この世のものは全て虚しい」というものがある。これに後に一部反発したのが内村鑑三なのであるが、今回は伝統的な考えを紹介しよう。

それゆえ、わたしの魂にむかって、「何によって喜ぶかが問題である。かの乞食は酩酊によって喜んだが、君は名誉を喜んだ」というものはわたしの魂から立ち去るがよい。主よ、それはどんな名誉であったか。あなたのなかに存在しない名誉である。じっさい、あの乞食の喜びが真実の喜びではなかったように、わたしの名誉も真実の名誉ではなく、このわたしの名誉はわたしの精神をますます邪悪にしたのである。あの乞食はその晩眠ってかれの酔いをさましたであろうが、わたしは酔いながら眠り、酔いながら起きた。

「告白 上」岩波文庫,p178

 ここで前提とされる状況について軽く説明しておく。アウグスティヌスが名誉の為に奮闘しており、苦難していた。そこで、その辺にいた乞食を食事に招き入れ、語り合った。アウグスティヌスは苦難していたが、乞食は、喜んでいた。それを見てアウグスティヌスは気付く。喜ぶのと悲しむのならどちらがいいか。乞食はアウグスティヌスより上なのだ。

 つまり、こういう事である。仮に、どれだけレベルの高い次元で戦っていても、喜んでいなければ虚しい。しかし、話はこれだけで終わらない。喜ぶより悲しむなら喜ぶ方がいいだろう。しかし、それら喜びはどちらも京楽の類であった。名誉で喜ぶと言えども、その名誉は、自分の為の名誉であって、主の(つまり、世界の)為の名誉ではなかった。

 そのような名誉は、彼の精神を「邪悪」にした、という。ところで、昨今、大学教授や実業家などの傍若無人な振る舞いを見て、彼らの態度の大きさに辟易した人はいないだろうか。彼らは、確かに、ある面では優れており、尊敬に値する。しかし、精神性ではどうだろうか。人間の美徳を備えているだろうか。「傲慢」ではなく「謙虚」、「排外」ではなく「博愛」を持ち合わせているだろうか。

 無論、持ち合わせている人もいるだろう。しかし、問題なのは、こういった美徳が過小評価され、名誉ばかりが持ち上げられる現代社会ではないか。といっても、このような問題提起はそれこそ、軽く行ってみるだけにしよう。兎に角、キリスト教では、このような価値転換を行う。ある意味で、資本主義社会への処方箋になるだろう。「本気で信じられれば」だが。

 という事で、信仰を持つ事によって、地上の価値観を打破出来る可能性を提示してみた。無論、「資本主義アンチとしてのキリスト教」は誘い文句でしかない。正しい道筋としては、有神論(神は現実には明らかに存在しないが、しかし、存在する)に気付く事である。そうしたら、主の為に生きるのが何より大切だと気付くだろう。資本主義アンチの皆さんは、宗教に興味を持つといいかもしれない。それでは。


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