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【コラム】ASDによる「ASDのASD批評」についての批評

著者プロフィール:

 抜こう作用:元オンラインゲーマー、人狼Jというゲームで活動。人狼ゲームの戦術論をnoteに投稿したのがきっかけで、執筆活動を始める。月15冊程度本を読む読書家。書評、コラムなどをnoteに投稿。独特の筆致、アーティスティックな記号論理、衒学趣味が持ち味。大学生。ASD。IQ117。

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 事実の羅列的なコミュニケーションを取ってしまう。とにかく、その事実が面白く、自分の感情などはどうでもいいからだ。とはいえ、これは典型的なASD特性のようだ。という話を展開したので、今日は、事実ではなく、お気持ち表明をしようと思う。

 ASDは気高くあって欲しい。プライドが高くあって欲しい。よくSNSにいて大変気持ち悪いのが、原罪を背負っているASD者である。彼らは、自身が劣等であり、ASDという属性は単純にマイナスで、周囲に迷惑をかけるものだと思っているらしい。そこで、それだけなら気持ち悪いネガティブ集団なのだが、あろうことか、他のASD全体を対象として、説教をかます。

 曰く、このような感じ。"自覚してないASDは迷惑でタチが悪い。私もコミュニケーションに問題があったが、本当に人に迷惑をかけたと思っている。どんどん人が離れてくよ。皆も治そう。"

 まるで、私は大変罪深かったが、キリストに救われたと公言して、人に教条主義を押し付けるキリスト者のような仕草である。彼らはキリストによって自らが上に上げられたと思っている。よって、自身の傲慢さに気付かない。この手のASDも同じ精神構造である。

 そもそも、彼らは、「自分自身」の問題としてコミュニケーションを語るべきだ。コミュニケーションをASDに還元してはいけない。なぜなら、ASDのコミュニケーションに、共通項はあっても、それで全てが説明着く訳ではないからだ。そして、彼らの一番の問題は、彼らが自身を嫌われ者、蔑まれる者と語る時、彼らの周りにいる人々を否定している事だ。

 当然、ASDならば、友達が少ないという事はあるだろう。しかし、それでも、友達がゼロ人という事はほぼ有り得ない。有り得るとしたら、客観的に見てもそこそこ仲の良い関係の相手を、ASD当人が友達だとみなしていないだけだ。それは周りに大して失礼である。そのような、友達を大切にしない姿勢こそ治すべきであって、罪人のように振る舞って情けを貰おうとすべきではない。

 端的に言って、ASDに必要なのは、むしろ選民思想である。僕は定型発達者の事を全く嫌いではないのだが、定型>発達という序列を内面化するよりは、逆を内面化した方が精神衛生上良いだろう。無論、それが最善ではない。僕は、最近、自分が発達障害である事はよく忘れている。そんな事はあまり気にならない。それは、人との関わりが無問題で行えており、且つ生活に特に支障がないからだ。それが最善である。

 なんにせよ、この手のASDに必要なのは、延々とウジウジ言っていないで、気高く、高貴に、自身の目標やら夢やらを貫く事である。

 とはいえ、やがて彼らにも、キリストによって真に救われたものが至るように、罪に囚われずに、「今・ここ」を生きられる日が来るだろう。そんな彼らに対して、今日は一冊の本を勧めよう。


 ある種の破天荒な女子大学生と、主人公の男子大学生が、2人でサークルを作るのだが、女の子はもうこの世にいない。そして、サークルは変わり果ててしまった。その中で、主人公が、サークルをぶっ潰す為に活躍するという、そういう話だ。え?この話と何の関係があるのって?それは読んでからのお楽しみ。

 という事だ。もっと気楽に考えたまえよ。諸君。それでは。

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