地上の価値観を逆転させたいという卑怯な欲動:ニーチェ「反キリスト」の"体現者"である僕

抜こう作用です。

今日、大学に行ってきた。
論文の書き方についての講義を受け、そこで先行研究を調べる学習をした。
授業が終わって、僕はいつもの友達と、その友達が尊敬している、知り合いAと共に三人で帰ることになった。
いつもの友達は、電車の方向が違う為に駅で別れ、僕は普段あまり話さないAと共に電車に乗った。

Aはバイトをこなしながら、ボランティアに明け暮れている一年生で、僕の唯一の友達である「いつもの友達」と、しょっちゅうボランティアの話で盛り上がっている。
感性が豊かで、人とコミュニケーションを取るのにこなれている。

そこで、僕たちは電車の中で、当然のように話をする事になった。

Aは、先生に、グサグサ刺されるような事を言われたと嘆いていた。
先生に言われたのは、Aは行動や実践を重視していて、何かやらないと価値がない、と思っている、みたいな事だったのだと記憶しているが、恐らく、僕の記憶はガバガバである。

そこで、僕はAに、「ボランティアは座学もやるの?」と聞いた。
Aは、「ものによっては座学も必要なので、幾つかは座学をやっている」と答えた。
僕は、「先生が言いたかったのは、座学も重要だという事なのかもしれないね」というような事を言った。
Aは、「座学は大学に通っている(ので、それで十分である)」というような事を言った。

そのまま、僕は「人間というのは、他人の頭の中を除けないから、結局、何を考えているか分からないけど、だからこそ、言葉というのを重視している」という事を唐突に語った。

唐突すぎてこの記事の読者は意味が分からないかもしれない。
僕も、実際、自分がなぜこのような事を言ったのか理解出来ていなかった。

これを語った直後、彼は目的の駅に着いたのでそこで降り、話は打ち切られる事となった。

帰宅した僕はパニックを起こした。


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