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キリスト教系評論家への道 -多作・寡作とキリスト教との関係-

 多作な作家に憧れる人は多い。憧れる理由のひとつに、寡作だと収入が安定しない。もしくは、渾身の作で勝負する自信がないので、作品数で誤魔化そうとしている。どちらの理由もあまり良い理由とは言えない。noteの投稿者の中にも、毎日投稿を掲げながら、内容に大きな意味や価値を見いだせない文章を書いている人が多いように感じる。大抵の場合、事象をわざわざ文章にする必要はない。体から無理やり捻り出して文章を捻出するのは、心地よい試みとは思えない。

 多作な作家というと、ゴッホが思い浮かぶ人が多いだろう。しかし、僕はゴッホについてあまり詳しくなく、彼の多作を堂々と語れる自信がない。そこで、代わりとして、遠藤周作の話をしよう。遠藤周作は、カトリック信者の小説家である。キリスト教を題材とした作品を刊行しており、芥川賞受賞作家でもある。彼の作品数は凄まじく多く、短編なども含めれば、500を越えるという。そんな彼は、洗礼名通り、まさしく「パウロ」だったと言われている。

 なぜ、彼はそこまで多数の作品を残せたのか。一つ思い浮かぶのは、キリスト教が題材だから、という理由だ。キリスト教の記事を今までに何本か上げて分かったが、この宗教は延々と語る事が出来る。何故かというと、そもそも根幹の(キリスト教の)テーマである「愛」や、「贖罪」「福音」、「三位一体」「復活」「再臨」などが、実に深遠で、解釈をしようと思うと幾らでも出来るからだ。もしくは、神学も含めると、膨大な量のサブテキスト(二次創作)が存在し、それも語る事が尽きない。神父さんや牧師は毎週、聖書を引用し説教する。毎週話しても話題が尽きない。それだけ語れる事が多いということだ。

 しかし、キリスト教を題材にするにおいて問題なのは、100点が存在しないという事だ。キリスト教においての100点は、イエスの十字架と復活、三位一体の教義。この2つである。十字架は、偉人の単なる処刑とも捉えられかねなかった出来事を、復活という「勝利」で帰結させるという、異次元の論理である。三位一体は、集合論的な破綻が、実は真理であるという、論理体系を凌駕する圧倒的な現実である。遠藤周作の「沈黙」がいかに素晴らしい作品といえども、この2つには負けてしまうのだ。

 では、キリスト教以外を題材にすれば、100点を取れるのかというと、微妙である。結局、聖書よりは下という評価になるのは必須である。これに対しては、元より聖書より読む価値のある本などないのだから、諦めるしかない。キリスト教を題材とする場合も同じだ。つまり、ここに来ての問題とは、キリスト教を小説/評論の題材とした時の問題ではない。三位一体、十字架によって、全ての問題が解決してしまう事の問題である。遠藤周作が、ずっと信仰と向き合ったように、我々は、後は信仰のみになってしまう。それ以外の、哲学、自然科学、社会科学など、全て遊びとなってしまうのだ。

 閑話休題。ここまで、何を題材とするかについて記事を書いてきた。ところで、インターネットで人気のある批評家のnoteを読んだ。批評家といってもアマチュアで、ちょっと人間性に問題があり、ネタにされているタイプの人である。それで、その人繋がりの批評家の文章も色々と読んだ。僕も、こういう論評的な文章を書くので、自分の文章と比べて、こう思った。文体には自然さが欠け、高尚さを意識しているものの、内容的には薄い、と。僕の文体は、普段読んでいる本の質と数によって、もう少し洗練されている気がする。それで、そろそろ本気で文章で勝負するべきか迷った。今まではインプット量の少なさが問題だったが、夏休みの大量読書で、だいぶ書けるようになってきた。

 実は最近、評論記事を一本、批評サイトに送った。とはいえ、これは恐らく通らないだろう。一つに、皆は文字数が12000文字くらい書いているが、僕の記事は5000文字なのと、そもそも記事の質が低いからだ。そこでダメ出しを貰う事になると思うが、楽しみである。その記事も、最終的には道徳に言及し、キリスト教の話を展開する。その記事が落ちたとしても、継続してキリスト教系の評論を行いたいと思っている。さて

 なぜ、インターネットのその批評家は、僕に比べてもあまり良くない文章を書いたのか。無論、読書の質と量の差ということで一度説明を付けた。では僕の読んでいる本とは何か。言わずもがな、聖書である。聖書の文章の高貴さが、多大な影響を与えているのだ。ところで、それによってもたらされる真理は、あらゆる問題点を解消し、「今・ここ」の境地へと我々を誘う。それによって、あらゆる問題は、キリスト教に還元され──────。哲学、自然科学、社会科学は、全て遊びとなってしまう。だが、それでいい

 その批評家の致命的な問題点がもうひとつある。それは、題材としているものがあまりに興味を持つに値しないということだ。それに対して、キリスト教は人生の基盤となる論理である。人類史上、最も人気のあるコンテンツで、且つ日本では開拓しがいのあるブルーオーシャン。もしくは、評論においてキリスト教関連のワードを一言も使わなくても、僕はクリスチャンなのだ。染み、出る。新天地を開拓出来る自信がある。近いうちに。今、新たな宗教評論の時代が幕を開けようとしている。僕を、見てくれ。それでは。


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