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アフターコロナを生きる思枠とは

「今週の思枠(おもわく)」──『思考の枠を超える』特別編<第7回>
篠原 信(農学博士)

連載第3回で、コロナウィルスが蔓延したクルーズ船と、それに対する世論の対応について考察しました。あれから1カ月あまり。コロナウィルスの猛威はとどまることを知らず、日本でも非常事態宣言が発令。諸外国のロックダウンほどの強硬策ではないものの、「8割の社会生活の自粛」を要請される、かつてない事態が起きています。

この状況を超え、コロナ後の世界では何が起きるのか。我々はどのようにウィズコロナ、アフターコロナを生きるべきか。篠原信先生が思考実験してみた「今週の思枠」スペシャル編をお届けします。

資本主義国の「思枠」

産業革命から第二次大戦終了まで、資本主義国で強く信じられてきた「思枠」があります。「労働者に高い給料を払ったら会社は成り立たなくなる」です。確かにリクツとしては分かりやすい気がします。労働者に高い給料を払ったら、製品価格を高めに設定しないと利益が出ない。しかし製品価格が高くなると他企業との競争に敗れ、結局会社は倒産してしまう。だったら、苦しくても製品価格を安くしなければならない。製品を安く抑えるには、労働者の給料を低く抑えなければならない……なるほど、説得力のある論理のような気がします。

こうした、疑うべくもない「真理」(?)に真っ向から挑戦した二人の変わり者がいます。ロバート・オウエンとヘンリー・フォードです。

オウエンは、まさに弱肉強食の時代であった産業革命の頃に活躍した人物です。当時はかつかつ食べていけるかどうかの安い給料しか払わないのに12時間労働。しかも子どもを働かせるのも当たり前とされ、世界随一の先進国だったはずのイギリスでは、平均寿命が非常に短くなってもいました。

安い給料だったのは、他の工場に安売り競争で負けないようにするためです。他のどの工場よりも製品を安く売ることで生き残るためには、労働者に支払う給料は少しでも低く抑えたいというのが経営者(資本家)の本音でした。

そんなときに活躍した変わり者が、ロバート・オウエンでした。オウエンは、当時の風潮とは全く逆のことを行いました。給料はゆとりを持てるほどにしっかり支払い、労働時間も当時としては驚くほど短く、しかも現代の生協につながる、良質な生活用品を安く提供する店を工場内に設けました。これだけコストのかかることをしたら、製品価格に跳ね返り、他の工場に価格競争で勝てなくなるはずです。ところが。

オウエンの工場が作り出す糸は、世界最高の品質でした。細いのに強い。しかも労働者の技能が高くなり、生産性も増していたので、決して価格は高いわけではありませんでした。それでいて品質が高いわけですから、オウエンの工場の製品は人気を博し、イギリスで最も経営的に成功した工場となりました。しかし、当時としてはやはり「変わり者」扱いだったのか、なかなかオウエンのあとに続く人が出ず、弱肉強食の時代が続きました。

第二次大戦が終了するまで、労働者を安くこき使う社会は続いていましたが、第二次大戦が始まる前に、もう一人、重要な「変わり者」が現れました。ヘンリー・フォードです。フォードもやはり、従業員に高い給料を支払いました。しかも当時の金持ちでもなかなか買えなかった自動車を買えてしまうくらいの破格に高い給料を、です。

それどころか、週休2日、1日8時間労働という、今の先進国の働き方のベースになる労働条件を整備しました。給料は高くする、働く時間は短いとなれば、他のどんな工場よりも競争力を失い、会社は潰れてしまう、はずでした。

ところが。

フォードの会社は急成長。フォードの生産する自動車はさほど高くないのに高品質。だから大変な人気を博し、会社として大成功を収めました。

そんな事実があったにもかかわらず、フォードのやり方には当時の工業界では反対意見が多かったようです。そんな高い給料を支払ったら労働者はつけあがるばかりで働かなくなる、会社として立ち行かなくなる、と。フォードも変わり者扱いで終わる恐れがありました。

「労働力」の思枠から「消費力」の思枠へ

しかしここで、オウエンやフォードといった革新者を「変わり者」で片付けさせない理論を示した男が登場しました。ケインズです。

ケインズの経済学の革新的なところは、私の考えでは、「労働」ではなく「消費」に目を向けた点にあります。それまでの資本家たちの考えでは、「労働」にかかるコストはできるだけ押さえ、安い製品を作ることが、会社の競争力を向上させ、生き残る唯一の方法でした。

ところがケインズの経済学は、「消費」に軸足を置いた点が面白いところです。もし消費者がたくさんいて、消費するのに十分なお金があり、商品をたくさん買うことができたら、商品はたくさん売れる。たくさん売れると量産効果で安く作ることができる。従業員(労働者)に高い給料を払っても、そのほうが働く意欲を高め、商品をたくさん作れることになるなら、損はない。

そして高い給料をもらった従業員(労働者)は、同時に「消費者」にもなります。その消費者(=労働者)が、大きな購買力で大量消費をします。大量消費してくれるなら大量生産が可能になり、大量生産が可能なら生産性が向上して従業員に高い給料を支払っても損はない、高い給料をもらった従業員は消費者としてどんどん消費し……と、「大量生産大量消費」という、経済をどんどん成長させる好循環が生まれます。

この好循環を生むためには、従業員(労働者)の「労働力」にばかり向けていた目を「消費力」に移すこと。従業員(労働者)の消費欲求を刺激するためには、給料をしっかり支払うこと。それがケインズの経済理論の大きな特徴でした。

幸い、ケインズには、オウエンやフォードといった実例がありました。この二人の経営者は、高い給料を支払うことで工場の生産性を爆発的に上げ、しかも製品の品質も向上させ、経営的に成功させました。しかも、フォードの場合、自社の従業員が自社の自動車を乗り回す「消費者」にもなった、という実例がありました。

従業員(労働者)の「労働力」ばかりに目を向け、それをいかに安く押さえるか、という「思枠」に囚われていた過去の資本主義から、「消費力」に目を向け、それを刺激するために高い給料を支払い、結果として生産性が上がり、経済の好循環を生み出すことができるという「思枠」へ。ケインズは、「労働」から「消費」へと、思枠をシフトさせた偉人だといえます。

人間が囚われ続ける「お金」と「労働」の思枠

さて、新型コロナが猖獗(しょうけつ)する現代から、ケインズを見直してみると、ケインズでもまだ、一つの「思枠」に囚われていることがわかります。それは「お金をもらうには働かなければならない」という思枠です。
ケインズ理論は確かに消費を重視したかもしれません。しかし、「働く」ことがなければお金をもらえない、という点は、昔と変わりません。これはソビエト連邦など、当時、世界を二分していたもう一つの経済システム、共産主義でも同様です。「共に生産し、財産を共有する」のが共産主義ですが、共産主義国にいる人間は誰もが働かなければならない、というのが大前提でした。

しかしこれは、当時としては仕方のないことだといえます。第二次大戦が終了するまで、先進国といえども人口の半分くらいは農民だった時代です。機械化は十分に進んでおらず、たくさんの人手がなければ農業はできませんでした。みな、必死に働かなければ食べていけない。「働かざるもの食うべからず」というのは、生活体験から裏づけられた事実でした。

ただ、第二次大戦後、事情がガラリと変わります。わずかな数の農家だけで、国民を食わせることができるようになりました。江戸時代には8割が農民、戦後まもなくでも半分が農民だった日本も、今では人口のわずか1.4%しか農業に従事していません。日本だけではありません。世界最大の農業国・アメリカも、農家はわずか1.3%に過ぎません。わずかな人数だけで、全国民を養うことができる時代になりました。

人間は、食べることさえできればとりあえず生きていけます。「健康で文化的な」生活を送ろうとするなら、もう少しいろんな物資やサービスが必要でしょう。そうした生活必需品を考えても、それらを全国民分生産するのは、さほどの労働力を必要としないでしょう。機械化が進んだからです。生きていくのに必須なものを生産するのに、さほどの労働力を必要としなくなったのが、現代という時代です。

新型コロナが発生した今、私たちは生活必需品+αだけを購入して、家の中に引きこもり、生活を続けています。まだまだ、こうした生活は続かざるを得ないでしょう。その間、「人が集まる」ことを前提としていた飲食業、観光業など、さまざまなサービス業が、成り立たない状態が続いています。その業界の人たちはお金を稼ぐ手段を奪われ、今の経済システムを続ける限り、いつか食糧を買うお金さえなくなり、餓死してしまうかもしれません。

それを避けるには、新型コロナがなかなか下火にならない状況が続いたとしても、多くの人が死なずに済む社会を早急に形成しなければなりません。そのためには、まったく異なる経済システムを考え、その新たな「思枠」に社会全体が飛び移る必要があります。

新型コロナに負けない「経済システム」の思枠

そのためにいったん、これまでの経済システムのことは忘れましょう。働き方も、お金の仕組みも何もかも。

そして生きていくために、多くの人を死なせないために、ミニマム(最小)に必要なことは何か、を考えましょう。

もし、全国民、あるいは世界中の人類を食べさせることができる食料を作れるなら、そしてそれを公平に分配できるなら、人間は死なずに済むでしょう。また、暖をとるための燃料や、電気・水道など、生きていくのに必要な生活必需品やサービスを全員分生産し、しかも一人ひとりに分配できるなら、私たちは問題なく生存できます。そこに少しだけ楽しむゆとりがあれば、そう悪くない状況になります。

そう、新型コロナが猖獗する世界になってもなお、次の3つの条件を満たせるなら、人類はさほど破綻せず、多くの人を死なせずにすみ、生きていけます。

1. 世界中の人を養うだけの量の食糧や生活必需品・サービスを生産できる。
2. それを一人ひとりに分配できる。
3. これらの仕組みを、「人を集めない」(新型コロナ防止のため)形で実施できる。

農業、製造業、そして運送業。ある程度の人数の人たちがこれら生活必需品を生産し、分配する業務に携わってくれるなら、そのほかの人たちは引きこもっていても生きていけるはずです。

政府は、生産が滞りなく行われ、それが各戸につつがなく運ばれるように気を配れば、国民を死なさずに済む。こうした社会が、「新型コロナ適応社会」の基本的な姿になるのではないでしょうか。

新型コロナは、アフリカなどにも流行してしまった以上、一つの国の中で下火にはなっても、いつ海外から流入し、再燃するか分からない状況が長く続くでしょう。そうなれば、「お金」の性質も変わることになります。いくらお金があっても、旅行に行ったり高級料亭で食事をしたりという行為さえ、多くの人は感染が怖くてできません。結局、生活必需品の購入に毛が生えたような程度の消費しか、お金持ちでもできません。つまり、新型コロナが脅威である間は、お金は、「生活必需品+αを生産し、分配する」のを手助けする仲立ちの役割しか果たせないだろう、ということです。

そうした時期がしばらく続くでしょう。

ここで素描したのは、経済学の素人である私の妄想でしかありません。願わくば、気鋭の経済学者の方々に、新型コロナがしばらく続いたとしても、人ができるだけ死なずに済む、できれば少しでも楽しく生きていける、新たな経済システムをデザインして欲しいと思います。

過去の経済システムの「思枠」に囚われていては、新しい時代のシステムを構想することはできません。思い切って、新型コロナが存在することを前提にした、それでいて人が死なない、そこそこ人生を楽しめる、そんな経済理論を創出していただくことを、願ってやみません。

著者プロフィール

篠原 信

1971年生まれ、大阪府出身。農学博士(京都大学)。農業研究者。中学校時代に偏差値52からスタートし、四苦八苦の末、三度目の正直で京都大学に合格。大学入学と同時に塾を主宰。不登校児、学習障害児、非行少年などを積極的に引き受け、およそ100人の子どもたちに向き合う。本職は研究者で、水耕栽培(養液栽培)では不可能とされていた有機質肥料の使用を可能にする栽培技術や、土壌を人工的に創出する技術を開発。世界でも例を見ない技術であることから「2012年度農林水産研究成果10大トピックス」を受賞。

著書に『自分の頭で考えて動く部下の育て方 上司1年生の教科書』(文響社)、『子どもの地頭とやる気が育つおもしろい方法』(朝日新聞出版)『ひらめかない人のためのイノベーションの技法』(実務教育出版)があるほか、「JBpress」「東洋経済オンライン」「現代ビジネス」などに記事を発表している。

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