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「本物」の香り

 化学物質過敏症という、厄介な病を得た。元々嗅覚が敏感で、耐え難い臭いに接すると眉間に皺を寄せていた。でも、それだけだった。しかし、ある日を境に世の中の色々な香りが私にとっては不快な「臭い」となり、体調不良を招くようになった。
 天敵は人工香料。柔軟剤、合成洗剤、香水、化粧品、そして入浴剤も。好きだった香りにも耐えられなくなった。雑踏が怖く、にぎやかな場所へは足が向かなくなった。
 とは言え、全ての人工香料を避けて生きていくのは不可能だ。回復への道を探り数ヵ月、何とか体調が上を向き始めた晩秋、夫とともに旅に出た。発症前から計画していた金沢再訪だ。空港も機内も混んでいたが、道中はマスクでやり過ごし、無事、十年振りに金沢の地を踏むことができた。
 日が暮れてからホテルに着いた。荷物を置き、すぐにその夜の目的地へ向かった。犀川の畔に佇む小さなレストランだ。十年前、「この店を自分の街に持って帰りたい」と、どれだけ思ったことか。あの日と同じく、私たちは素敵な食事を素敵なワインで楽しんだ。そして、十年という時を感じさせない素敵なマダムのサービスは、心から「ここに来ることができてよかった」と、感じさせてくれた。

 贅沢な時はあっという間に過ぎていった。
「次の機会はいつになるのだろう」
そう考えながらコートを着ていた私に、マダムは小さな香り袋を差し出した。甘く爽やかな芳香が、ふわぁっと私を包んだ。
「この香りは何ですか」
「白檀だと思います。母が作りました」
と、マダムが答えた。
 私はそれを握りしめた。白檀が、私の中にすうっと広がっていった。人工香料が身体の中に作り出す軋みとは、全く違う。この病になって以来感ずることができなくなっていた普通の嗅覚を、本物の香りは蘇らせてくれた。そしてその感覚は、
「必ず治ってみせる」
というある種の決心を、私の心に植え付けた。
 いつかまた、夫とともにあのレストランを訪れたい。その時は、十年前のように健康な身体でありたい。そして、それは必ず叶うと、私は根拠もなく信じている。

(2019年作)

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