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一年四ヵ月分の記憶

 札幌生まれの私は、室蘭の小学校に入学した。父が転勤族だったのだ。幼かった私は、幼稚園の卒園式の直後、事情を理解できないまま知らない町へ引っ越した。どうしてなかよしのマー坊といっしょに学校へ通えないのか、まったくわからないままだった。急行列車で二時間の距離は、子どもがひとりで簡単に行き来できるものではなく、同居の祖父と会えなくなるのも嫌だった。

 室蘭の家については、ほとんど覚えていない。間取りも壁の色も記憶の中にないが、古い社宅で、二階に崩れそうな木製のベランダがあったことは覚えている。手すりをつかむと、かつては白かったペンキが剝がれて掌に貼り付き、私はその感触が嫌いだった。その上、なぜか伝書鳩が数羽住み着いていた。ベランダは鳩の糞だらけで、見た目も実もとても汚かった。

 知らない町、祖父がいない家、友達の誰ひとりとも会えない道端。近くに公園もなく、お転婆な六歳には厳しい境遇だったが、母も若く、次女の気持ちまでは気が回らなかったに違いない。小学校の高学年を地方都市で送らねばならなくなった姉の方が、母から見れば大変な状況だったと思われる。

 唯一の救いは、隣家の同い年のユミちゃんだった。彼女のお陰で友達カウンターがゼロからイチになり、学校へ通うことができた。

 入学した小学校は新設校で、ピカピカの校舎だった。自宅から、歩いて二十五分ほど掛かった。土地勘はあるはずもなく、おまけに方向音痴で、私は毎朝ユミちゃんを追い掛けて登校した。「ユミちゃんについて行きなさい」と母に言われたのだ。おかげで、通学路を覚えるのに時間が掛かった。

 しばらくの間は集団下校だったが、ユミちゃんとはクラスが違い、いっしょに帰れなかった。同方向へ帰るクラスメイト数名と共に下校していたが、女子はひとり。その上、立場が転校生に等しく、私は完全にアウェイだった。

 とうとうある日、私は集団下校のグループを抜け、ひとりで帰るという暴挙に出た。しかし、勇んだ挙句に道を間違え迷子になり、泣きながら走り回ることになった。見当違いの角を曲がった私を見掛けたユミちゃんが母に報告してくれたので、泣きじゃくる私は母に見つけられた。このときも母は、「早く通学路を覚えなさい」とは言わず、「ユミちゃんについて行きなさい。みんなについて行きなさい」と私を諭した。方向音痴は遺伝で、疑うべくもなく母由来であった。

 不安な先行きから始まった室蘭生活であったが、慣れてくるとその日々はとても楽しかった。札幌では経験しなかったことも多かったのだ。浴衣を着て港祭りに行ったし、図書館やプラネタリウム、水族館にも子ども達だけで行けた。気が付くとアウェイ気分はなくなり、友達カウンターの数字も上がっていったが、そんな生活も一年四ヵ月で終わった。札幌に戻ることになったのだ。

 その後私はもう一度転校し、三校目で卒業を迎えた。三年在籍できた学校はなく、正直なところ、小学校の思い出は切れ切れだ。付き合いが続いている友人はひとりもいない。ユミちゃんとも、室蘭から越した後は一度も会わなかった。

 それでも、入学した小学校には幾ばくかの懐かしさがあり、ドライブついでに訪れたことがある。二十代の頃だ。新設から二十年が経過し、ピカピカだった校舎は見る影もなく古びていたが、教室の中を覗けば、あの頃の自分に会えるような気がした。

 そして、なかなか覚えられなかった通学路を、当時の自宅に向かって車で辿ってみた。砂利道もあったし木の階段もあったと思うのだが、記憶通りの場所を見つけることはできなかった。舗装もされただろうし、車が通れない場所もあったのだろう。周囲にはビルも増えていた。

 さらに三十年近くの年月が過ぎた。ひょんなことから、この小学校が平成二十七年三月で閉校になっていたことを知った。近隣の小学校二校と共に統合され、移転したのだという。過ごしたのはたった一年四ヵ月だったのに、記憶は存外に私をさみしさへと導き、それは懐かしさとないまぜになった。

 私は地図アプリを開いた。
 あの通学路を辿ってみた。そして驚いた。自宅から小学校までは、たった一・三キロだったのだ。二十五分も掛かっていたのに。私はひと際小さかったし、祖父が買ってくれたランドセルは重たかった。

 校舎はまだ残っているだろうか。既に学校ではないし、五十年近く経っている。今は、見に行きたいような行きたくないような複雑な気持ちが、一年四ヵ月分の記憶の上に乗っかっている。

(2022年作)

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