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語る

結局どうなりたいのか。

一体何者になりたいというのか。

そんなこともよく分からないままに語る。

誰かと一緒に時を過ごすということが幸せなのか。

何か楽しいことを共有するということが人生のキーポイントなのか?

なんかそこじゃない気がしている。

なんだかいつも矛盾に覆われてしまっている気がする。

こうだけど、こうじゃない。

幸せになりたいけど、幸せになるのが怖い。

人はいずれいなくなるけど、いざいなくなったら辛い。

死んだ時に後悔はしないように生きよう!と誓うんだけど、死ぬ直前に『悔いのない、いい人生だった』と言える人は多分ほとんど存在しない。

好きだけど、嫌い。

でも本当は好きの反対は無関心で・・・とか、なんだか意味の分かんないことをちょっと知った気になって語ってみたり。

自分が知っていると思っているこの社会、世の中、人生というものは実はものすごく限られた空間でほんの一部にしか過ぎないのにも関わらず、『所詮人生はこんなもんでしょ』とどこか斜に構えてみたり。

分からないものを理解しようとしたり、分からなかったものに触れてみたりするのは、生きる上でものすごくたくさんあることなのに、いざその瞬間に直面すると、途端に体が動かなくなる。めんどくささが勝つ。

だから、自分が知っている情報のみで解決しようとして、それでも解決するのだ。だから人生なんてこんなものだとどこか舐めだす。

そしてそれだと通用しないと気づいた時に、絶望感とか恐怖感に苛まれて、自分を守るためにこの社会から距離を置く。

それはそれで正しい決断ではあると思うけど。

もしかしたらもっと別の方法があるかもしれないとどこかで、自分の行動に疑問を抱き、そして新たな価値観を生み出さないといけない。

でもそこまでする必要はあるのか?と急に冷静になってしまって気楽に生きる選択を試みる。

でもそれだと世の中が少し厳しい目でこちらを見てくるということが起きる。

そんな不規則な目線をいちいち気にしていたら本当の自分の人生なんて歩めやしないだろう。とどこかで冷静な自分が顔を出してみたりと、結構めんどくさいのだ。

考えれば考えるほど、考え過ぎない方がいいということに気づき。

もっと考えた方がいいぞ?と意識しだすと、あっという間に問題が解決することもあるのだ。

だから両方とも必要な行動なのは間違いない。

とか語りだすのも、もはや一体何に対するなんなのかということ。

めんどくさい人生だ。

いや、そもそも人生だからめんどくさいのか?

人のために最善を尽くすのが人生?

ではいったいどれほどの気持ちの余裕が必要になってくるんだろう?

そもそもそんな人のことを気にすることができるほどできた人間でもないし、偉そうに映らないかな?とか、自分を守るための色んな言い訳が自分の頭の中をグルグルしている。

多分そんなことじゃないということもなんとなく分かってはいるのだが。

というか、こうやってぐだぐだと語っている時点でもう良くないんだと思うなぁ。

多分そういうことを感覚でやっている人が自然で、心地のいい尽くし方をできるのだから。

何よりも自然というのが一番強い。

不自然なりに自然を装うことは多分その次くらいに強い。

何も考えずにフラフラと生きるのが、一番弱い。

弱いってなんだ?

分からない。

少なくとも、自分が意思が弱くてどこまでもクソな人間なのは確かです。

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