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日本舞踊の会に行って思ったこと

日本舞踊のお稽古を割と長い間続けているのだが、今日はなかばお付き合いで、先生のお知り合いが出演されている日本舞踊の会に行ってきた。
それを見ながらつらつらと、どんな人がこの会を見に来ているんだろうと考えていた。

当たり前ながら一番多いのは出演者の知り合いだろう。
親戚、友人から、出演者が先生であればその弟子筋。私みたいに師匠に連れられて、みたいな人も多いと思う。
それ以外の、例えば出演者のファンであったり、日本舞踊自体が好きで来場している人もいるのだろうか。まったくのゼロとは言えないかもしれない。その数は少ないとは思うけれども、一定数はいるのではないかと踏んでいる。
現に、同じ師匠についている方で、SNSで日本舞踊の会の情報を得て、足繁く通っている方がいらっしゃるのだ。

そういう人たちは何を楽しみに見てるのだろう、と失礼ながら思ってしまう。
日本舞踊を習っている人であればなんとなく分かる。良い舞台を見るのは勉強になるからだ。
でも純粋に好きで見るのはどうなのだろうか。

日本舞踊というのは、歌舞伎舞踊から来ている。
歌舞伎で踊られている舞踊を、自分でも踊ってみたいという人たちが現れて、それを教える人が出て、流派ができて、という流れのようだ。
そんな訳だから、舞踊を見たいとなれば、歌舞伎を見てもいいわけだ。
なんなら歌舞伎役者は年がら年中、踊っているようなもんだから、一般的な日本舞踊家よりも場数を踏んでいる分、見応えある踊りを見せてくれる可能性が高いと言えるかもしれない。
歌舞伎のお芝居は興味ないのだとしたら、歌舞伎役者が踊りの会を開催することも多々あるので、それを行くといいかもしれない。
それなのになぜ、歌舞伎役者でない人の踊りを見るのだろうか。

まず考えられるのは、歌舞伎でかけられる舞踊は基本的にメジャーどころの演目しかないが、こうした舞踊の会はマイナーな踊りもする。そして、マイナーな踊りでも結構面白いものは沢山ある。因みにマイナーというのは、歌舞伎でかけられやすいというだけで、舞踊の会ではよく見かける踊りもある。

次に考えられるのは、歌舞伎役者は良くも悪くも役者の色が強いことが多い。
これはある意味当たり前で、皆はその役者を見に来ているのだ。例えば、坂東玉三郎の踊りはどこまでも坂東玉三郎で、皆も「坂東玉三郎の踊り」を期待して見に来ているのだ。
でも日本舞踊家というのは、そこまで個人の色は強くなく、踊りの巧拙はその踊りの意図をどれだけ汲み取って表現できているかにのみかかっている気がする。それができた上で、「〇〇さんは踊りがうまい」という評価が出るイメージだ。
もちろん、歌舞伎役者とて、踊りの解釈はきちんとできていないと上手いとは言われないわけなのだが、それと同時に役者のイメージもつく感じがする。
あくまでも私の印象だが。

踊りの上手な人たちの舞踊を見ていると、歌舞伎はほぼ1ヶ月興行であるのに対して、日本舞踊の会はたった1日、一発勝負なだけ、持てる力を100%出しているような気がした。
踊りの手数も多いし、情感たっぷりである。
女性の踊り手が多いのも日本舞踊の会の特徴となるが、女性はどうしても体力面では男性に劣る。
だから激しい踊りなどは男性よりも迫力があまりないかもしれない。その分というのか、情感面ではきめ細やかなのだ。
そういうところが、歌舞伎役者による舞踊とは違った魅力なのかなと思った。

そして上手な踊りを見て強く思ったのが、踊りは身体を使った芸術だということだった。
当たり前のことなのかもしれないが、自分がやってるとついつい忘れてしまいがいだった。でも今日の踊りを見て、身体を使って表現する尊さのようなものを感じた。
自分もその域に達したいと思いつつも、まだまだ道のりが非常に遠いということも痛感した。
常々、先生に「自分サイドで踊らないこと。お客さんに伝わってるかが大事」と言われていることも思い出した。
小指の先ほどの一歩かもしれないが、お稽古を頑張ってちょっとでも今日の方々に近づくことができたらなと思ったのたった。

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