わたしのふるさと
子どもの頃、夏休みのたびに遊びに行くような"田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの家"に憧れを抱いてた。
母方の祖父母に家は田舎といえば田舎っぽい所にあったけれども、野山が広がっている場所というわけではなく、「ふるさと」の歌に出てくるようなことはできなかった。よく考えてみたら、虫取りや魚釣りをしたかったわけではないけれども、青空に緑が広がる水田を駆け巡るのに、ぼんやりとした憧憬を抱いていたのだ。
そんな時に出会った本が、芝田勝茂著の『ふるさとは、夏』であった。
まさに私が想像していた「ふるさと」の風景がそこにあって、夢中になって読んだ。
更に大人になって、遠野を訪ねた時、これぞ自分が思い描いていた「ふるさと」だと感慨深く思ったものだった。一緒に行った妹と自転車を乗り回し、小さな頃にやりたかったことが満たされた気分になったものだった。
最近始めたXで、なんとなく遠野市立博物館をフォローしていたら、まあ出て来る、私の思い描く「ふるさと」の写真。
青空に真っ白な雲、緑輝く田んぼに青い山。
それを見ていたら条件反射的に『ふるさとは、夏』がまた読みたくなった。
そう思い始めて気付けば8月も後半。夏の時期に読まねば!と大慌てで読んだのだった。
簡単にあらすじを書くと、主人公のみち夫は東京に住む男の子。疎遠だった父方の叔父の家へ、夏休みの間に預けられることになる。
初めてやってきた父親のふるさと。そこは田畑広がるいなかだった。
慣れない方言に、知っている人がほぼいない状態で(親戚とはそれまでほとんど付き合いがなかったので)、当初思っていたよりは楽しくない夏休みとなる。
そんな折、村で久しぶりに「バンモチ」という祭が開催される。従姉に連れられてやってきたみち夫はそこで嫌な思いをし、東京に帰りたいと思う。
それを本家の女の子、ヒスイにぶちまけたところ、ヒスイとみち夫の間に白羽の矢が飛んでくる。その矢は氏神様の矢だったので大変なことに。
ヒスイは神社ごもりすることになり、みち夫はその介添い人になるのだった。
ところが、驚くことに神さまたちがヒスイやみち夫のもとにやってきて言う。実はこの白羽の矢は氏神であるイツオ彦が温泉に行っている間に誰かによって射られたものでイツオ彦の意思ではない。誰が放ったのか犯人を見つけて欲しいとイツオ彦をはじめとした神様たちに頼まれるのだった。
こうしてみち夫とヒスイは、村にいる神様たちに出会いつつ、犯人捜しをするのだった。
神様たちが普通に出てくるところは何となく遠野っぽい雰囲気だが、作者の芝田勝茂氏の出身地、石川県が舞台なのかなぁと想像。それくらい方言がふんだんに使われていて、みち夫の戸惑い具合をリアルにしているのだ。
久しぶりに読んでみて、みち夫が出会う、従姉含め、五尾村の人たちのみち夫に対する扱いがひどいとちょっと憤慨したところで、そういえば小さい頃も、その後また読んだ時も同じ感想を持ったなということを思い出した。
そして読み進めるうちに、そう見えたのはみち夫の目線だったからで、彼が神様たちとの交流をもって見方を変えていく過程を追体験していくなかで、村人たちに悪意があったわけではないんだと気付いていく。これも前回読んだ時と同じだったなぁと思い出して来たのだった。
自分の感想はちょっと忘れていたけれども、物語は何年も経っての再読でもよく覚えていた。そしてとても懐かしい気持ちでいっぱいになった。
出てくる村人たち、個性豊かな神様たちに再会した気分にもなった。
現実世界では「ふるさと」と呼べるところがないけれども、この本こそが私にとっての「ふるさと」なんだなと強く思ったのだった。確かに本の中にはふつさとの夏があり、帰省したのだから。
また数年後に、ふるさとに戻りたくなって本書を手に取るんだろうなと予感している。
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