アイヌについて書く時に思うこと
9月8日の大阪文学フリマに参加する予定にしており、そこには去年の9月に北海道へ旅行した絵日記的なものを出そうと思っている。
その旅行というのはは、妹とともにアイヌ文化に興味をもって、ウポポイに行きたい!となったところから始まった。最終的にはウポポイ以外にも、アイヌ関連施設なども行き充実した旅になったので、それをまとめた訳だが、アイヌには素敵な文化だけではなく過酷な過去もある。しかもそれは和人、つまり私自身含めた、アイヌや琉球民族など以外の、いわゆる先祖代々日本語を使い、日本文化のなかで生活している人々が原因となっていた。
そのデリケートなところも書くのにあたって少し心配になっていたところ、『アイヌもやもや』というアイヌ差別の本があることを知って、さっそく読んでみた。
まず衝撃だったのは、アイヌに対する差別がいまだに残っているということだった。
アイヌだから就職先が限定され、アイヌだから進学させないと言われ、そういう格好はアイヌに見えるからやめたほうがいいと言われる等など。アイヌであることを隠して、できるだけ和人に見えるように生活している人もいるらしい。
今まで日本でそういった差別を受けたことないし、逆に「〇〇さんは△△だからお付き合いしないほうがいい」といった話を周囲の人から聞いたことがなかった。日本には差別がまったくないと言い切れるほどおめでたくもないし、ヘイトがあるのも認識している。でもここまではっきりとした差別が残っていることは想像できていなかったのだ。
そもそものところ、日本は多民族国家であると学校で明確に教育された記憶がない。
北海道から沖縄までを「日本」とするのであれば、日本史にはアイヌ民族や琉球民族の歴史も含めるべきなのに、私が学生時代のときにはなかった気がする。「蝦夷」が出てきたとしても、それはどこか他の国のような文脈で出てきた。
もっと時代を下って明治時代の北海道旧土人保護法のことも習った記憶がないし、ましてやコシャマインの戦いなど、アイヌの和人に対する反乱を、アイヌ目線で学んだことはないはずだ。
これらはアイヌに興味をもって文献を読んだり、去年の旅行で博物館などに行って知ったわけで、そのたびに衝撃を受けていた。ある意味、「日本史」を学ぶ上でも、知らないうちに差別をしてしまっていたと言えるのかもしれない。
そうなるとますます自分が書いたものに差別的表現がないか心配になってくる。もちろん私はアイヌの文化を下に見ていることもなければ、むしろ素晴らしいと純粋に思っている。
でも、えば『アイヌもやもや』で、「”アイヌを見習って自然と共生しよう”と言われるともやもやする」といったことが書かれるとドキッとする。いわく、その裏には”自然と共生って私たちの祖先がしていたことで、文明とともに手離してしまったもの、でもアイヌには残っているんだよね、つまりアイヌは文明的発展していなくて私たちの祖先と同じ感じなんだよね”という意味合いが見え隠れするというのだ。
でも実際は当たり前のことながら、アイヌの人たちも今は他の和人と同じような生活をしている。だからといって、”アイヌが文明的な生活をしているのは、和人による同化政策のおかげであって、だからアイヌの文化を廃したのも結果的によかったんだ”という考えもとんだお門違いである。
差別問題に限らず、悪意がないというのが一番質が悪い。
でも悪意のない身としては、何が傷つけるのか分からないというのも事実なのだ。
自分にとって耳の痛い過去であってもきちんと向き合って、それによって受けている被害の声を聞いて、自分の言動が相手を傷つけないかひとつひとつ真剣に考えて進んでいくしかないのだと思う。それでももし自分の言動によって傷つく人が出てしまったら真摯に謝罪しつつ、何が問題なのかを勉強していくことが重要だろう。
それがアイヌ文化に感動した一和人ができる、精一杯のことだと思うのだ。
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