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今更ながらのパリオリンピック開会式

パリオリンピックが終わって数日経ってから、今更のように録画していた開会式を観た。ネットでちらほらニュースを読んでいたが、正直なところ、想像以上にひどいなという印象だった。
想像以上に雨がひどかったし(雨の対策をしていないことにびっくり&フランスらしいとも思ってしまった)、想像以上にレディー・ガガの起用が唐突に感じたし(レディー・ガガ自体は好きなだけに残念)、想像以上に演出に戸惑いを感じた。

演出のなかで一番印象的だったのが、マリー・アントワネットのシーンだった。もちろん「印象的」というのは悪い意味でだ。
生首を持ったマリー・アントワネットらしき人物の登場、しかも複数名というのも気持ち悪かったし、血しぶきを想起させる赤色の演出もグロテスクに感じた。
このシーンに違和感を感じるのは、オリンピックというハレの日に血生臭い演出はどうなのか?という極めて日本人的な感覚からかと最初は思っていたが、よくよく考えるとそれ以外にも2つの要因がある気がする。

1つ目はこの演出が「LIBERTE(自由)」というテーマの中であることだ。単純に読み取ると、マリー・アントワネットら王侯貴族を倒して自由を勝ち取った、という文脈なのだろう。
それはフランスの歴史の一部ではあるだろうけれども、暴力をもって勝ち取ったという、いわゆる暴力の歴史をこんなにも肯定的に捉えることに違和感を抱いた。
もちろん、自由を得るためには暴力をも辞さないというのは1つのメッセージなのかもしれないが、特に今現在、あちこちで戦争という暴力が横行しているなか、これを正当化するのはどうかと思ったのだ。
特にオリンピックは「平和の祭典」のはずである。それが暴力で成したことを大きな功績として称えることはどうなのかと大きく疑問に感じたのだ。

2つ目はなぜマリー・アントワネットだけなのか、ということである。
フランス革命の発端となったのは、マリー・アントワネットが悪女だったからではない。マリー・アントワネットが来る前から国庫の破綻は始まっていました、そもそも王侯貴族を倒したという文脈なのであれば、国王も出すべきである。
ベルばらを見て育ったせいでマリー・アントワネットに肩入れしているだけかもしれないが、全てをマリー・アントワネットのせいにするのはどうかと思うのだ。
そもそもマリー・アントワネットはフランス人ではないし、しかも女性。そこに悪意すら感じてしまうのは穿ちすぎだろうか。
外国人女性を悪女に仕立て上げた演出の後に、フランスを作った十人の女性に表敬を示しても、なんだかなぁと思ってしまった。

というもやもやを、オリンピックも終わったというのに感じたのだった。

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