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大学院生の授業料支援廃止について、こうなった理由と今後について考える


昨日から、大学、特に大学院生と院進希望者の界隈は大騒ぎです。
なぜかって、来年から大学院生の授業料支援が廃止されるからです。
(今リンク張ろうと思って検索してみたけど、報道すら出てなかった…ニュースにすらならないってことなのかな)

この知らせを見た時の私の心情としては、「はーんそうきたか」「…確かにそういう発想になりますよねえ」と言った感じでした。

話題になっているのはこの記述です。

4-9.その他、対象学生等の認定に関する要件について
Q67 大学院生は新制度の支援対象になりますか。
A67 大学院生は対象になりません。(大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)
出所:http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/hutankeigen/1409388.htm

要は「就労して税金を納め、国の財政に貢献する人々がいる一方で、税収につながらない人々に割く財源はない」ってことですかね。
書いてあることの意味がいまいちわかりづらいので、私なりの解釈です。

大学院生的には、こんなに残念な気持ちになる文章もそうありません。
そして大学院生に限らず、このメッセージって危険な発想じゃないかなぁと思います。
だってこの発想って、一般化すると、生産性が無い行為や人間は許されないという意味にも解釈できます。
3年ほど前の事件を髣髴とさせるようで、げんなりしますね。

げんなりしていてもいいことないので、話を先に進めましょう。

生産性という言葉

雑ですけど、マクロな話から始めます。

私が物心ついた頃から日本は財政難な上に労働人口が減少していますから、長いこと生産性向上を唱えています。
生産性とは、早い話がアウトプット/インプットです。
国の場合、アウトプットの指標はGDP?なのかな?その辺はよくわからないので一旦置いときます。

生産性は上のように定義されるので、生産性向上のための手段はざっくり2つあります。
①分子を大きくする、②分母を小さくするの2つです。
もちろん両方一気にやっても構いません。

①分子を大きくするためには、お金(正しくはリソースと言いますが簡略化のためここではお金に絞ります)が掛かります。
お金が無い場合、①ではなく②が取られます。
分子を小さくするには様々な手段が想定できますが、あけすけに言えばコストカットです。

コストカットの信条の元、政府は学問に対する金銭的支援において選択と集中を掲げてきました。
最初から社会への還元(≒カネになる)が期待できる研究にのみ支援をするということです。

ここからは想像ですが、恐らくはこういう経緯で今回の通知に至ったのではないかと考えられます。

「選択と集中」だけではコストカットが足りなくなってきたので、もっと削る必要が出てきた。
高等教育に関する費用の内、どこなら削れるだろう。
おや、大学院生は18歳人口の5.5%しかいないじゃないか。
大学生だけで予算ギリギリだから、ここは削ろう。

…仮にビジネスをしているなら、ここまであんまりおかしいこと言ってないんです。
ちゃんと戦略的な発想をしていると思う。

ビジネスの論理

でも、私は、政治は、学問は、ビジネスの論理との相性は必ずしも良くないと思います。

5.5%を「少ないから」切り捨てる、その発想が政治の場で行われているって、怖くないですか。
それって大学院生だけじゃなくて、社会のマイノリティを切り捨てる発想につながるんじゃないでしょうか。
ビジネスならマジョリティに訴求して収益を上げるのは自然な発想ですが、それを政治の世界でやるのは違う気がする。

また、学問に絞って言うなら、こんなにビジネスの論理が通用しにくい世界もそう無いと思います。
基礎研究と応用研究という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

基礎研究…学術的な知識や,製品や利益に直接結び付くことのない技術と理論の発見に関する研究活動。一般に時間と費用が掛かる。かつて日本企業は諸外国から基礎研究の成果を導入し,自らはそのコストを負担せず製品を開発し,市場を席巻しているという批判を浴びていた。しかし近年では,基礎研究がイノベーションを起こすのに必要であるという認識が広まり,文部科学省の創造科学技術推進事業などのように基礎研究について産官学共同のプロジェクトが行なわれたり,基礎研究に力を入れる企業が増えつつある。
出所:https://kotobank.jp/word/%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%A0%94%E7%A9%B6-160541#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
応用研究…基礎的な技術や理論を現実の製品に結び付けるための研究活動。ここでは特定の開発目的に合致するように研究計画が立てられ,定められた期限と予算の中で一定の成果が上げられることが要求される。また,製品の生産に近い部分の研究であるだけに,工場隣接の研究所で行なうのが望ましいという議論もある。
出所:https://kotobank.jp/word/%E5%BF%9C%E7%94%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6-160532

基礎研究と応用研究は、ピラミッドの下の段と上の段のような関係にあると思っています。
基礎研究での知見がなければ、応用研究の発展はない。
すなわち、一見無駄に見える、何の役に立つんだかよくわかんない研究があってこそ、人々の生活が豊かになると言える。
無駄を嫌うビジネスと違って、学問において良質な無駄はむしろ必要なものです。

そんなことはあらかたの大学院生ならわかっているはずです。
でも、それは決して、決して、世間の常識ではない。
私はそれを就活で痛感しました。
ていうか、大学院生の割合が5.5%ということから考えればそんなの当たり前ですね。
だって学問に触れたことのない、自分で研究したことなんかない人が圧倒的多数派ってことですから。

じゃあ、企業で働くビジネスパーソンはともかく、なんで国の方向性を決める役人でさえ、学問や大学院生についてわかってくれないのか。
わかろうという姿勢すら示そうとしてない(ように見える)のか。

ここには、大学院生がマイノリティであることが関わっているような気がします。

マイノリティはなぜ不利な状況に置かれるのか

以前、マイノリティとは数の上で少数派の人々を指すだけで、それ自体にネガティブな意味は無いということを書きました。


あれ以来、なぜマイノリティが不利な状況に置かれるのか、就活を通して考えてきました。
なにせ私も就活の場で大学院生という意味でマイノリティですから。

大分粗削りですが、下のフローが私の中で仮説として挙がっています。
(仮説なので批判は大歓迎です)

○○には様々な言葉が入ると思う。
誰もが何かの側面でマイノリティですよね。
好きな言葉を当てはめて読んでもらって構わないです。

で、マイノリティが不利な状況に置かれる結果を防ぐためには、

黄色いボックスにアプローチするのが有効なのではということになります。
反対に言えば、マイノリティが不利な状況に置かれるのは、
①マイノリティについて理解のある人が少ないから、②マイノリティに訴求してもうまみがないと思われるからです。

大学院生の例に当てはめて言うなら、大学院生に財源が割かれないのは、
①大学院生(≒学問)について理解のある人が少ないから、
②大学院生に投資してもアウトプットが得られないと思われているからです。

じゃあ、なんでそういう現状になってしまったの?という話になります。

自分を振り返ってみて

①も、②も、結局のところ、マイノリティの側から声を上げないと解決できません。
その意味で、私自身の姿勢も、確かに良くなかった。

世間に目を向けて、自分の研究分野が社会とどう繋がっているか、伝えようとしてきたか。
学問を通して何を学び、どのような価値を生み出せる人間になるのか、意識してきたか。
そう問われると、自信をもって「はい」とは言えない自分がいます。

私は、自分が愛する学問の価値を、意義を、面白さを、他者にわかってもらうための努力を本当にしただろうか?
わかってもらえたらいいなぁと言ってばかりで、具体的な行動はしていなかったのではないだろうか?
もっと言えば、わかる人にわかればいいよねと斜に構えて、説明を対話を放棄していなかっただろうか?

もっともっと恥を忍んで言えば、「他の人にはわからない学問の魅力がわかるワタシ、ウフフ」ぐらいのことを、思っていたんじゃないだろうか?(本当に恥ずかしい)(呆れないで、お願い)

そういう私の、あるいは私みたいな大学院生の態度が、今回みたいなことを引き起こしたんじゃないだろうか?

…政府のお金は国費で、国費ということは国民の税金ですから、国民に還元できると保証が無いものにお金は出せないという説明もわかるんです。
私だって働き始めて納めた税金が全然どうでもいい使われ方されてたら、嫌だもん。

これから、どうする?

この後、黄色いボックスを消すために取れる手段はそれぞれのボックスに即して考えると2つあります。
①大学院生(≒学問)について理解してもらう、すなわち学問にビジネスの論理は通用しにくいと理解してもらう。
②ある意味ビジネスの論理に則って、大学院生への投資は大きなアウトプットを産む、つまり生産性向上につながると証明する。

この2つのどちらがより良いのかは、現時点では判断できません。
判断するには私自身の知識も経験も足りません。
なのでここでは提案に留めます。

マイノリティは自らが不利な状況に置かれていると感じるなら、自ら声をあげないといけません。
なぜなら、そうしないと、マジョリティにはマイノリティを不利な状況に追いやっているという意識すら、恐らくないから。

女性でもLGBTでも有色人種でも、米国のアファーマティブ・アクションに見られるように、平等は声を上げることから始まりました。
声を上げて、自分たちの存在を主張することを、マイノリティの可視化と言います。
(パッと本を出せないので出典を示せなくて申し訳ないですが、確かそうだったはず)

だけど、はっきり言って、私は優れた研究者の卵や研究者に、こんなことに時間を割いてほしくないという想いもあります。
そんなことやってる暇があるなら研究して成果出してほしい。

だから、そうやって大学院生を可視化して、価値や意義を社会に伝えていくのは、私みたいに修士で大学を出ていく人の役目なのかなぁ、とぼんやり思っています。
サイエンスコミュニケーターでも目指そうかなぁ。

私個人としては、対話は万能ではないし、対話不能な層だっていると思っています。
でも対話する前から嫌がってても、始まらないよなぁ。
できることを少しずつやっていくしかないことを突きつけられて、どきどきしている金曜日です。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。