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家族の事、私の学生時代の事。


今回は私の家族と私の学生時代について。思い出すまま書き殴っていくので宜しくお願いします。

私の家族構成は、父、母(両親は同じ年)そして5つ離れた弟がいます。

父の家は建築工事従事者の家庭で、父が中学を卒業すると直ぐに父も建築工事に携わったと聞きました。そして父の父(私から言うと父方のおじいちゃん)が仕事が出来なくなると、父は自分の苗字が付いている建築工事会社の社長となり、部下を引き連れて雨の日も風の日も暑い日も働きに出ていました。当時は私は三階立ての一軒家に住んでました(今も実家はそこです。)そして、1階には事務所があり、父の会社の従業員の方が出入りしていました。私はこれが何となく嫌で、一階にはなるべくいたくありませんでした。高圧的な態度の父。猛暑の中汗を流して働く従業員さんが恐らく熱中症で嘔吐したという話をゲラゲラ笑いながら本人の前で何故か小さい頃の私に話す時もありました。今でも何故わざわざ父はそんなことをしたのかわかりません。従業員の方は情けなそうに俯いていました。父にとって気晴らしなのでしょう。社長という事でそれなりにお金もありました。100万円やぞー!と札束で頬をぺちぺちされたこともありました。(それはちょっと楽しかったです笑)ビデオがなかなか売ってなかった当時ビデオレンタル店で、レンタルせずにお金を多く出してビデオを買ってくれたこともありました。ミーハーなのでニンテンドー64とポケモンスタジアム、ゼルダの伝説時のオカリナ、スマブラを買ってプレイもしました。父の事は私は縁を切っているつもりですが、ゲームに関しては出会わせてくれてありがとうという気持ちです。

そんな父親の会社ですが、他にも沢山建築工事に従事する会社が出来て仕事がなくなり、畳まざるを得ませんでした。父は車が大好きでした。外車じゃないと嫌がり、シボレーのカマロのような車高低くて地面から振動が来るような車を乗ったり、名前は忘れましたが車庫ぎりぎりのばかでかい車に乗ったりころころ変わっていました。しかも外車は日本車より圧倒的にすぐ故障し代わりの車がいつも車庫に居て実質その外車にはどのくらいの時間乗れてるの?と聞きたいくらい皆一瞬の儚い命です。しかも同じのを長く使うのを父親は嫌うので本当に一瞬です。この外車ループは家計にダイレクトに響くのは考えなくても分かります。しかし父はそれがやめられません。生活水準を社長の時より下げられないのです。
そしてヘビースモーカー。缶ビールは1日最低でも6本。我が家ではダンボールで数ケース缶ビールを常備していました。お酒が入ると暴言暴力の嵐。幼稚園児位の時から、父が母に暴言と暴力をはたらいていたのを見ていた気がします。「にわチャン!!先上がっておいて!」と、ドラマみたいな。本当にこの言葉は何度も言われました。そして下から響く暴力の音。母の叫び声。心臓が、どっくん、どっくんってして両手で耳を塞いでも聞こえるんです。死ね!!とか、殺すぞ!!とかお皿が割れる音、、。一緒に上に避難していた赤ちゃんだった弟にはどう写ったんだろうか。でもきっと覚えてるんだろな。

毎日の暴力。暴言。母は鼻を折られ、あちこちにアザができてこのままじゃ殺される、と母は友人宅に私と弟と母を匿ってもらいました。その時は私は小学生くらい。しかしそれも時間稼ぎにすぎません。家に帰ると暴言、暴力の日々が待っていました。
丁度父は職を失い、中卒でも働ける場所を探した結果ドライバーになっていました。しかし父は外面はさわやかで好印象ですが、話していくうちに馬鹿さが目立って人から離れられるんです。それを他人のせいだ!と激昂して揉め、仕事を辞めてまたドライバーの仕事に就き、辞め……の繰り返しです。変なプライドもあり、「こいつらより俺は仕事が出来る」「こんなとこやめてもっと自分にふさわしい職場で働く!」とかいう所謂「ピーターパン症候群」みたいなものになっているなと思っていました。母は家事仕事でクタクタなのに父の理想像を延々と語られ、日付は余裕で過ぎ……がほぼ毎日ありました。そして、小学生高学年〜中学生になった私に悲劇が訪れます。

暴力の標的が私にも向きました

小学生高学年〜中学生になった私は「校区外に行ってはダメ」「5時に帰らなきゃダメ」等他にもルールが沢山ありました。私の通う小学校、中学校は治安がとにかく悪く、授業中席に座ってる人がほばいない、なんなら廊下で歩いてる、トイレは喫煙所、非常階段は性行為の場所、「√」の計算すら出来ない筋金入りの数学苦手の私が10評価中8評価を貰えてしまうという本当に混沌とした場所で、私はそんな場所で生きていける気がせず、いじめなどは受けませんでしたが保健室によくお世話になっていました。そんな私が、友達と遊びに行く時くらい良いじゃないかと校区外のショッピングモールでプリクラを撮ったりするのが凄く楽しくて……しかしそれは何故かバレてしまうんですよね。母からはゲンコツ。アツアツのアイロンを投げられる。そして母が父に告げ口をして、父親がよし来たとばかりにグーで、頭や顔を容赦なく殴るんです。やめて、やめてってどんなに叫んでも止まらない。母は腕を組んで冷たく見下ろしている。ぐっしょぐっしょに泣いてる私に更に殴る真似をしてビビらせてゲラゲラ笑って、気がすんだら解放される。私、知らなかったんですけど女の子ってお父さんからグーで殴られることってないんですね!(全員が全員ってわけじゃないと思いますが……)心から驚きました。ギャップの違いに倒れそうになりましたし、お父さんって娘を守るものじゃないですか……グーでしかも顔に……殴る脅しまでしてビビったら笑って……何だか、なんだろうこの感情は。情けない?悲しい?虚しい?帰るのがちょっと遅かっただけで髪を引っ張られ腹を蹴られる。麻痺ってて今何となく思い出していたのですが、ほぼ毎日頻繁に暴力があった気がします。テストの点数だったり、なにか母の気を損ねることがあったりしたら、、。
食事中の子どもの私たちをガン見する事も毎日ありました。少しおかずを多く食べたら「そのおかず○○円!」「米もその分食べなさい」と卑しさ大爆発でした。お前はおかずしか食べなくて死んでるし箸の持ち方死んでるしクチャラーで死んでるのに。
そういえば父親の使っていた携帯があって、たまたまメール欄を見たら、あの、これは笑い話なんですけど純○歌の歌詞を不倫相手に送ってて超ドン引きしました笑笑 それ以来そのアーティストの曲は聴けませんけどね。
そして私が高校生くらいの時から家庭内別居。生活費渡すだけに2階に上がってくる父親。いつだったか、父親と母親が1階の父親の自室の前で口論をしていた。どうやら父親が不倫相手と電話していたのを聞いたらしく
母「私の何が悪いの?私の悪口言ったでしょ!?」
父「言ってない!それに前言っただろ!別に男いてもいいって!お互いそこは勝手にやるって!!だから俺も誰も(不倫相手が)いないって言ったら嘘になる」
父親が通話を部屋で始めたら部屋の前で盗み聞きする母親。これは今回だけでは無い。なんて地獄なんだろうと。
ちなみに私が今のパートナーと暮らしている事を父親は知りません。こういう時ふとおもいます。私とパートナーはお互いの意思でフォトウェディングはしたけど結婚式はいいよねって望んで行わなかった。でももし私が結婚式挙げたかったら無理だったろうな。常識的な父親と母親、親戚がいないと成り立たないもんね。当たり前に式を挙げている方、おめでとうございます。でもそれって、当たり前じゃないんだよって、思っちゃったりしなかったり。

そういえば我が家は奨学金、高校も短大も満額借りております。返すのは私。私の意思で着なかった短大卒業式の袴。私はスーツでよかったけど「袴に出すお金ない」ってよく言えるね。女の子の親なのに、着たがるかもしれないって分からないのかな。

さて、今の話だと母親の株があがるけどそうはさせません笑 母親のお話をしていきます。
母のお家はとあるお仕事(ヤバイ系のお仕事とかじゃないよ!健全だよ!ただ身バレするからナイショ!)で裕福でして、母はお嬢さんでした。ド田舎ながら大きなお家が2つ近くに建っており、私が小さいころ行き来してよく遊んでました。おじいちゃん(母の父)は優しく、おばあちゃん(父の母)は少し厳しく、勝気な母ですら「怖かった」という程でした。そんな母はこのド田舎の暮らしに辟易として、短大は都会の偏差値が終わっている(笑)ところに行くことで脱・ド田舎をはかりました。しかもこの短大は寮もあったようで母からすれば万々歳です。父と違って理系で頭の良い母は成績も問題なくクラブに足繁く通いバブルの終わりを楽しんでいました。そして正社員経験もなく、大学でバイトをしていたそうです。そんな母に運命の転機が訪れます。なんと父からナンパされたのです。ナンパに乗った母。あれよあれよと言う内に私を妊娠してしまった母は、父と結婚せざるを得ませんでした。22歳くらいの妊娠でした。世間体もあり、母が悪阻でしんどい中でも結婚式は強行されたようです。ちなみにウエディングドレスは母の要望は叶わず父が選んだクソダサドレスだったみたいです。そして、婚約指輪もおろか結婚指輪も無かったみたいです。私は、母が結婚指輪をつけている所を生まれてから今まで1度も見たことがありません。母は写真を嫌うので殆ど写真がありません。でも父も母も顔は良かった気がします。すみません、ここからは感情のままに書きなぐるのでぐちゃぐちゃになります。
・私は母に、「お前がいなければ(デキ婚)結婚してなかった」といいました。それを機に幼稚園児の時から大好きだった絵が一切かけなくなりました。
・私がいる時や私を紹介する時人前でめちゃくちゃ私を下げる(例えば私の似顔絵をイラストレーターさんに描いてもらったら「ちょっと良くかきすぎじゃない?ねえ?」ってズケズケいう。イラストレーターさんも困る……)
・かなりのルッキズム。醜形恐怖もあり?テレビを見てて内容より「誰がブス、デブ。」かずっと話している
・私が好んできる服を「ダサい」と一蹴。母が与えた服しか着れなかったから最近まで自分で服も買ったこと無かったし好きな服が着れる喜びを知った
・子どもの頃、分からない宿題があって聞きに行ったらなんで分からないの!?って毎回死ぬほどヒステリックになってブチ切れられて号泣しながらなにもわからないままただ言われた通りの答えを書いた(私の勉強嫌いの原因かも)
・弟には毎日お肉やらなんやら。私は野菜や細い魚
・私の通帳を握っていた(まじでおかしい)(そのおかしさに気づいてない私も洗脳されてた)
・パートナーと住むから家を出る。だから通帳返してくれって言ったら逆ギレ(さらに元からあるヒステリー)
・いつ実家から出ていいのってきいたら「メンタルクリニック通わなくなったら」……ってええ!?!!
理解無さすぎ!?メンクリ通いながら仕事行ってる人いるよ!?なんなら死ぬまで通わなきゃならないかもだよ!?(ちゃんとこれ言いました汗)
・パートナーと同棲前は週1~3ぐらい会っててちゃんと連絡して朝帰りしたらめちゃくちゃ機嫌悪い。ご飯が私の分だけ出されない。母曰く「朝帰りは認めない」……え??その時私20代後半ですけど?え?あまりの暴論かつ過保護かつ毒すぎて皆に聞いて回ったら満場一致で母がやばかった。不動産屋さんも引いてた。
・育て方間違えたわ!!(発狂)
・の割に都合のいいところ(顔のパーツが良かったり)は私似っていう
・父親が死んで欲しいという愚痴を延々聞かされる
・私を罵倒する言葉に「あの人に(父親)に似てるなあ!!」と吐き捨てられる
・休職中遊びも出来なくて実家居たとき一日中ずっと寝込んでたけど痺れを切らした母が「みっともないねん!こんな年齢の娘がだらだらと!」
↑の割にはデートは許されない〜ナンデ?
・とにかく遊んでるだけが許されないらしい
・メンタルの先生も「まずは遊ぶところから」と仰っててそう伝えても聞く耳持たず
・OD(服薬自殺未遂)した時メンクリかけこんで何を言われたか知らんが「お母さんのせいじゃないからね!」と、心配の言葉より先に言われた言葉です
・ODの副作用でポテトが芋虫みたいに動いてるように見えたり貯金箱が伸びたり縮んだりしてるのを伝えたら笑われた
・2回目のODは「またしたと思ったわ」と見下ろされた
・OD後平衡感覚も掴めず真っ直ぐ歩けない、手が震えて箸が持てない、そんな状況でも2日ほど休んで会社に行かされた。
・風邪をひくとブチ切れられる
・階段から落とされかける
・過保護過干渉毒親
・通帳返せ口論でなるべく私は毅然とした態度と話がすぐ脱線するから話し合ってたら「お前の為に父親から守ってやったんだ!」って言われたから「そっちが勝手にやったことやろ!」っていったら我ながらド正論だったし母黙って「私があんたの育てかたのどこが間違えたか探すから暫く待ってろ」って捨て台詞いわれて。私だって暴力も何も無い人の心を持ってる安心したおうちで生まれて行きたかったよ。

結果通帳返してもらったしパートナーと住めてハッピーですが実家から離れた今、母からのLINE、電話は無視してしまいます。もうなるべく干渉しないで欲しい。私は知らない間に、気付かぬ間に心がズタズタに引き裂かれて血が出てるのを止血していってる状態です。もっと何か言われたりされたりしたことある気がするけど今のところこんな感じです。

次は弟。あまり特筆すべき事はないですが……
すごくストイックで筋トレが趣味。ランニングもしてるのかな?サッカーとバスケが好き。
ある日を境に全く話さなくなってしまったので今の弟はどうなのかわかりません。昔は一緒にゲームしたりイナズマイレ○ン観たりしたのにな。
ある日というのが私のOD自殺未遂。その日、母によると救急車に乗ってきた人が私に「なんでこんなことしたの!?」と聞いた時、ゆらっと立ち上がって白目むいたまま「消えたかったから……」とずっと言っていたみたいです。それは母にとっても、弟にとっても恐怖だったし大変な深い傷を負わせたかもしれません。本当に申し訳ない。
でも、私が実家を出るって話した時に「あんたのせいで私は救急車の音がトラウマになった!あの子(弟)もすごく怖がってた!」って言われました。申し訳なくて何度謝ってもそのトラウマは消えないだろうけど、

私の事(なんでODしたかとか私のメンタル面)について考えてくれたことあるの?

と思ってしまう私もいるのでした。


最後はおまけ程度に私の学生時代でもご紹介します。

先程もお伝えした通り小、中学校はスラムだったので保健室にお世話になることが多かったです。そして、元々住んでいる地域もこの治安の悪さも田舎くささも嫌だったので私にとっては都会にあるレベルが高い高校を受け、見事合格しました。高校は凄く楽しかったです。10年来で今でも付き合いがある高校からの友人もいますし、私は交友関係は狭く深くがモットーなので気持ちも楽です。でも高校ではゲームにあけくれ、遅刻常習犯。挙句の果てにはテストを空白で提出。前代未聞の生徒と言われ、謎の小部屋でなんかよくわからん説教?聞かされて母親は呼び出しをくらい私にくどくどとまた説教?をして。
なんとなく、今思えば、メンタル疾患が外にまで出てきていたのかなと思います。
どれだけ楽しくても帰りの電車内では「死にたい……」とナチュラルに思っていました。そしてそれは、皆同じだと思っていたのです。テストの結果をただ貶し怒鳴るだけの母に涙を流すだけで(自業自得ですが)何も変わりませんでした。
そんな中、私の人生を変える出来事が起こります。
英語の先生が「あなたの好きなものはなに?」と聞いてくれたのです。私はその時ハマっていたイナズマ○レブンを言った次の日観たよ!と報告が。作中の名言を織り交ぜ、英語の指導をお忙しい中してくださり、私は初めて英語で90点後半の数字を叩き出しました。そこから受験を意識し……4大も目指したかったけど早く働いてお金稼いで実家出てまだ見ぬ運命の人との資金すぐ貯めたかったから短大で、先生のお陰で英語好きになったから海外も行ける制度あったし(お金は私が出しました)短大受けて合格しました。短大は忙しく、真面目に勉強、そしてノート貸してもらったり← バイトにも明け暮れ、毎日帰宅する頃には日付は変わっていました。家にPCが無かった為、バイト無い日はプレゼン資料とか課題は短大のPCをフルに使ってました。あと正直短大には友達はいませんでした笑 賢い子は転入狙い。流れで通ってる子は食堂でKーPOP爆音で流してウェイしてました。私みたいな多忙で中途半端な真面目はいませんでした。短大に通っている人間とは合わなかったけど英語の勉強楽しかったし何より留学できたからよかったです。
それと同時に、境界性人格障害の症状がかなり酷くなっていました。立てなくて保健室に這って行くことも多く、名前も覚えられました。前回の自己紹介で記載した「元カノとはいえない薄い関係」の人間と喧嘩する毎日。境界性人格障害のサイト、マニュアル、わかりやすいものを沢山用意したのに元カノは一向に協力してくれるどころか(境界性人格障害は2人で治す病気です……)LINEブロック、着信拒否……見捨てられ不安がえげつない境界性人格障害の人間に対して地雷を踏み抜きまくる行為に心臓がもう大洪水みたいな、爆発しそうな苦しさに悶えて本当に死にたかったし死にそうでした。ちなみに遠距離での関わりなので数回会ったことはありますが、私今のパートナーに聞いて目から鱗だったことがあって……!
私の実家は母が他人をあげれるのを嫌がるので元カノを泊めてあげられない。一方元カノはご家族の好意もありおうちで泊まってた。
私は泊めていただいているということで毎回菓子折を持って行っていたし、元カノがこっちにきたら良さげなホテルをとってお金多めに払ってた。
その話を今のパートナーに言うと、「いや、ひどすぎない?自分がホテル探すのも手抜いてるし、ホテル代もケチってるやん。」と…………!!
執着って怖いですね。私はてっきり恋人の部屋に泊まれる♡って思ってたんですが……本当だなんか騙された気分腹立つわあ!

こうして色んな問題を抱えたまま新卒の新入社員となるのでした。

長々と乱文失礼致しました。ではでは。

にわチャンのお庭

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