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ホームレスを哀れむ僕らは川井みき

 cakesの連載記事が批判を集めました。

 炎上の概況

 私達の社会からは少し距離を置いて生活をしているおじさん。そんなおじさん達と会話をして、彼らの生き方を知って、そのユニークさにたまに感動したりして、河川敷を訪問している間の時間がまるで異世界にいるような「ユートピア性」を見せてくれる機会が、たまらなく刺激的な魅力を放っているのかもしれせん。

 元は「河川敷グルメガイド 2020」という表題のnote記事であり、それがcakesクリエイターズコンテスト優秀賞を受賞して連載企画となった為に、にわかに注目されて炎上した形です。

 元のnoteとcakesでの連載記事ではニュアンスこそ異なりますが、基本的には夫婦で三年間ホームレスを取材し、その生活術から学ぼうという趣旨の記事です。これが「安全圏にいる夫婦がホームレスを“生き物”として面白がっている」「文化人類学が過去に犯したエスノセントリズムの過ちそのままだ」として批判を集め、cakes側は表現を訂正し追記をして釈明することとなりました。

 この訂正によって問題が無くなったかどうかはさておき、この記事の炎上は様々な反応を生んでいます。

cakesやnoteのホームレス記事の炎上、記事を作った人らがホームレスの人たちに対して異文化交流という視点になってて、同じ日本で生まれて義務教育(受けれなかった人もいるかもしれないが)を受け、色々な事情でそうなってしまって社会から逸れて生活をしている人たち、という配慮がゴッソリ抜けてる。
あと色々な方も指摘しているホームレス人生ゲームも本当に酷くて、拾った油を刺して自転車がスピードアップ、みたいなマスを作ったりするの、思い切りバカにしてるとしか思えない。何がスピードアップ、人様の人生をなんだと思ってんだ。
「ギャラリー・フェイク」フジタの「富む者は貧困を憎みはしない。貧困は彼らにとって興味の対象だからだ」を思い出した。絶対に自分は同じポジションに立つことはないと思える故に、呑気に抱ける興味
>”おじさん”とまとめて呼んでおけば、気楽に話ができる。
そらまぁそうまとめて呼称をつけたほうが、呼ぶほうの気は楽だよ。いろんな意味で

まとめて名付けておいたほうが、個々の人生やそうならざるを得なかった事情に目を向けなくて済むんじゃないですか。自分たちは重苦しいものを背負わずに「自分とは違う生き方を覗きに行きたい」気持ちを満足させられる。
すごい。cakesがこれを賞に値する「取材」記事だと評価したことが。

もう20年もフィールドワークやってる人間からするとああいう意見が子供から出てくるのは特に珍しいことでも新しいことでもないんだけど(そこで何を伝えるかが僕らの仕事になる)、あれを無批判に面白い・斬新と言ってしまう「無垢な大人」たちがメディアの中の人に溢れてきてる状況がだいぶやばい。
社会学や文化人類学などの視点を抜きにフィールドワークをやるとこうなる、ということですね。まさに社会学や文化人類学が成立する前の探検家の視点です。
noteやcakeのアレは…
昔ホームレスの支援団体・ビックイシューの取材をしたことがあるの。
その時の取材で印象に残ったのは「家がないホームレスより環境で生きる希望を失うホープレスが一番悲しいし問題」という言葉。
ホープレスを作るのは、相手を人間と見ずに書く人、見る人、そして助長する人。

元ホームレスだった者として、現在進行形ではないが当事者の一人として、この記事を書いた筆者の「ホームレスへの珍獣観察の視線」が非常に悔しいし悲しい。
あえて私達と言わせてもらうけど、私達は誰かの好奇心を満たすために生きてるんじゃない。
皆必死で生きてる。→

ホームレスの人たちを取材したcakesの記事、たしかにあまりにも無邪気なんだけど、だからと言って簡単に非難もできない難しさを感じる。誰かと深い関係を築こうというときには必ず好奇心があるし、自分のやってきたことが不可避な不幸な結果だと同情的な目線で見られることが必ずしも優しさでもないし
この辺もまったく言いたいことはわかるし正論なんだが、このcakesの人が受け入れられたのは「福祉的な視点のなさ」であったことは絶対間違いないんだよな。ていうか良識人には「同情され、憐れまれる側の気持ち」がわからなすぎるといつも思う。

 上記を読んで、更に怒りを燃やしたいなら「ホームレス人生ゲームの制作」というnoteを読むといいでしょう。冷静になりたいなら「ホームレスのおじさんから豊かさを考える」というnoteを読むといいと思います。

 ホームレスを「異文化の面白い生き物」として扱うのと、「社会から爪弾きにされた可哀想な人たち」として扱うのと、どちらが当事者の望む扱いであるか、部外者である私には分かりませんし、むしろ多様な背景のある人たちを一緒くたに語ること自体が間違いなのかも知れません。ただ、そのどちらも部外者として他者の生き様を自分の価値観で安易に消費している姿勢には変わりがないでしょう。


現実の弱者は“かわいそう”じゃない

 私の好きなルポライター、鈴木大介氏は生活困窮者や貧困の実態について長年当事者から取材し記事を書いています。彼は「生活困窮者は“かわいそう”じゃない」と警鐘を鳴らし、大手メディアの貧困者取材を批判しています。

 貧困当事者は、「健気で努力家なのに社会から爪弾きにされた可哀想な人」とは限りません。むしろ、肥満体型で、悪臭を放ち、時間にルーズで、すぐ嘘をつき、暴力的。そんな“かわいくない”人ほど周囲からの支援を受けられず、反社会的組織や風俗業に頼って生きていたりします。そんな“かわいそう”に見えない人たちの背景には、虐待や障害等様々な要因が複雑に絡み合い、単純な問題解決を困難にしています。

https://toyokeizai.net/articles/-/121457

 貧困者や生活困窮者をマスメディアが取り上げる際、しばしば「社会で生きている大衆とそう変わらないまともな人が人生を転落して困窮している」というストーリーを描こうとします。そうして同情を集め「お前らもうかうかしてると同じ目に遭うからな」と脅すのです。

 勿論そうした当事者も中にはいますが、そうして“綺麗な”生活困窮者が御涙頂戴の悲劇のネタにされている間、“かわいくない”生活困窮者は無視されます。最悪はその異様な外見や振る舞いを面白おかしく取り上げられ、「こんな異常者が困窮するのは自己責任」と見る者を安心させる材料に使われることすらあります。生活困窮者を「不幸に遭いながら健気に頑張ってる可哀想な人たち」として消費する視線も、逆に「社会に適合できないヤバい人たち」として面白おかしく消費する視線も、当事者のことを真摯に考えることはないのです。


「ホームレスを虐めるな!」と憤る、善良な加害者たち

 さて、私がcakesの炎上を認識したのは今朝のことですが、偶然同じタイミングでホームレスという単語を耳にすることがありました。バーチャルYouTuber、魔界ノりりむさんの雑談配信でのことです。

https://youtu.be/T0DUkVdVUNg

 独特な感性で話をされているので私の解釈での要約にはなりますが、概ね「夜中にコンビニに行ったら、ホームレスが呻いてる声が聞こえた。見ると、酔っ払いがホームレスに酒をかけていた。人間に失望した」というエピソードトークです。これ自体は酷い言い方をしてしまうならば、日本にありふれているホームレスいじめの一つであり、「そんな加害行為に及ぶヤバい人間がいる」と他人事として語れることです。

 私がショックを受けたのは、そのエピソード自体ではなく、それを聞いていたリスナーの反応です。

 「酔っ払いがホームレスに酒をかけていた」という部分で「ヤバすぎ」「最低じゃん」「ゴミだな」と義憤を燃やせる人たちが、ホームレスという単語が出た段階では「もう怖い」「関わるな」「見に行っちゃダメ」と言っていたのです。

 勿論、「ホームレスは怖いし危険だから近寄らない」という自衛と「ホームレスに暴行を加える」という加害行為との間には絶対的な差があります。しかしその感覚は延長線上にあるのではないでしょうか。

 例えば、クラスの浮いてる生徒を指して「あいつ何するか分かんないから近寄んない方がいいよ」と言ってる人が、別の場面では「いじめ反対!」と言っていたら違和感がありませんか? 近寄らない・目を合わせない・「あれと関わると危ない」と周囲の人に忠告する……それは“いじめ”には入らないの? と疑問に思いませんか。

 「聲の形」という漫画・アニメ作品をご存知でしょうか。聴覚障害者をいじめていた加害者の贖罪と被害者との交流を描いた名作ですが、ファンの間で最も嫌われているのはいじめのリーダーではなく、実行者でもなく、いじめを看過して笑っていながら問題が大事になると「いじめなんて最低! 私はずっと酷いと思ってた!」と加害者を詰り始めた少女、“川井みき”なのです。

 特にアニメ映画が地上波で放送された際は、感想ツイートと共に #川井を許すな というハッシュタグがトレンド入りし、「圧倒的ウザさ」「胸糞悪い」等と散々に罵詈雑言を投げられていました。私も「まあでもこういう独善的で卑怯な奴っているよな」というくらいに軽く考えていました。

 しかし、他でもない。川井みきは私であり、私たちだったのです。

 私はホームレスがいじめられることに対して憤りを覚えます。いじめを看過し、厄介ごとから逃げ出す人間にも失望します。ホームレスの方々が少しでも良い生活をし、福祉のセーフティネットの中で人間らしい生活ができることを祈っています。ですが、私自身が路上でホームレスの人を見かけたとき「怖いな」「絡まれたら面倒臭いな」と足速に立ち去らないとも限りませんし、目の前で暴漢に襲われている人を助ける勇気も力もありません。華奢な知人女性がホームレスの人を気にかけていたら、「危ないからやめた方がいいよ」と忠告するかもしれませんし、そう忠告する人を見て「ホームレス差別だ! ホームレスを助けろ!」と糾弾することもできないでしょう。

 自分の身を守りながら、よく分からない他人とは関わらず、自分の人生を生きる。それ自体は堅実で普通のことです。また、「ホームレスをいじめる酔っ払い」という明確な悪に対して憤る、“怒って見せる”のも社会では当たり前の振る舞いです。しかし他でもない、堅実に真っ当に生きながら綺麗事を言っている私たち自身がホームレスを忌避し、社会から阻害している加害者なのです。そうして普通の善良な人たちから避けられ、無視され、いじめられていても助けてもらえない中で生きている人たちがこの国にいるのです。

 ホームレスを興味本位で面白おかしく扱いながら「ホームレスに混じって異世界体験」をプレゼンする人も、ホームレスを無視しながら「ホームレスをいじめるな」と義憤に燃える私も、自覚の無い無邪気で善良な加害者です。みんな川井みきだったのです。そんな残酷さを感じた出来事でした。

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