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うどんとパクチーから考える肯定と否定
昨日、友人との読書会で向き合いたいテーマと出会う。
それは、肯定と否定とか、誠実さと正直さ。
倫理や正しさ、正義など個人のなかにあるものを他者のなかにあるものは違う部分がある。
その違う部分と出会ったときに、自分のなかに抱いた感情を訂正するのか、またもやオブラートに包みながら自分の意見を伝えるのかなど。
きっと関係性によっても変わるものだけど、相手によっては自分のなかにあるものを我慢してしまうこともある。
相手からすると、誠実だし気の合う人だと認識されるかもしれないけど、ほんとうにそれでよかったのかという葛藤はつきまとう。
自分の好きなものを否定されて傷つくか?
例えば読書会。
相手のことを否定しないというグランドルールがあったりするし、ぼくもよく最初に伝えていた。
読書をずっとしている人から相手から、自分のコメントを否定されたら、傷つくこともあるし、もう言いたくないってなるかもしれない。
一方で最初の人が語っている内容が自分の意見と反対の意見だったとしても、内にとどめてしまって本音は言えなくなってしまうかもしれない。
そもそもお互いが好きとか嫌いとかある。
ぼくは、パクチーの味が嫌いなように。
ベトナム料理のお店に行くと、「パクチーが何度か挑戦してみたけどダメなんですよね。けどパクチーなしのカオマンガイとか春巻きは好き」と話すようにしている。
じゃあ他の人がパクチー好きと言われて傷つくかというと、全然傷つかなかったりする。逆にぼくもパクチー嫌いと同調されてもそうなんだぐらいしか思わない。
SMAPの「セロリ」の冒頭にあるように、育ってきた環境が違うから、好き嫌いはいなめないのである。
ここで、パクチー食べなさいとかパクチーうまいよとか言われると興ざめするけど、そんなことは今のところないし断る。
パクチーのことは、料理の彩りは好きだけど味だけがダメなので、完全否定しているわけではないし、好きな人がいてもいいと思う。
ぼくは、地元にあるお店の柔らかい麺のうどんが好きなのだけど、他の人からまずいとか言われても、苦手なんだなぐらいしか思わないのだ。
それが意見交換や思想になった瞬間になぜだか、好き嫌いを言った瞬間に否定に結びつくのはなんでだろうか。
自分で料理した、丹精込めたうどんを食べてもらったとき嫌いだと言われたら傷つくみたいな感じなのかな。
そんなことを考えていこうとしている。
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