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『人生とは何か』ということを考える場所

ほんじゃーにーは、今回も1人語り回です。

2024年上半期最後に取り上げる一冊は遠藤周作さんの沈黙。

今日は前から行きたいと思っていた遠藤周作文学館に行ってきたこともあり、まとまってないけど、話したいと思った。

文学館は、長崎駅から車で50分ぐらい。

海が近くにある。生誕100年特別企画に行けてほんとうによかった。

展示会では遠藤周作さんが、どのような人生を歩んできたのか。ゆっくりとたどっていく。

遠藤周作さんといえば、2017年頃に公開されたマーティンスコセッシ監督『沈黙サイレント』という作品で知っている方も多いのでは。

なぜ小説を書くのか?

遠藤周作さんは、12歳にカトリック協会で洗礼を受ける。

その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の関係性テーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。

まだ読んだことのある作品は『沈黙』『深い河』のみだけど、信仰とは何か?であったり、ユーモアさについて深く心に残る言葉たちと出会った。

われわれ小説家は、みなさんと同じように人生がわからないでいて、人生に対して結論を出すことができないから、手探りするようにして小説を書いていっているのです。人生に対して結論が出てしまい、迷いが去ってしまっているならば、われわれは小説を書く必要がない。小説家は迷いに迷っているような人間なんです。暗闇の中で迷いながら、手探りで少しずつでも人生の謎に迫っていきたいと小説を書いているのです。

遠藤周作『人生の踏絵』

最近、村上春樹さんや小川洋子さんと河合隼雄さんの対談本のなかで、小説って何のために書いているんだろう?という問いについて語られていた内容を読んだこともあり、何度か読み返した。

書くということは、そういうことなのかもしれないと思う。わかっているから書くというよりは、わかろとするからこその営みなのだと。

なぜ沈黙するのか?

沈黙は江戸時代のお話。

キリスト教弾圧下の長崎に潜入したポルトガル宣教師ロドリゴは、当初は人目を憚り、山小屋に隠れ住んで村の信徒と関わるも、手引役の男に売られ、捕らえられる。

日本人信徒たちが受ける苛烈な拷問に〈神の沈黙〉を思い葛藤する。

最後には自分のせいで逆さ吊りにされた信徒たちを救うため、踏み絵をして棄教し、自分と共に苦しむキリストを見出す。

この作品の沈黙というタイトルが逸脱だ。

ぼくは、映画を観るまえに作品を読んでずっと胸のなかでグルグルと消化しきれないものを抱えていた。

この作品には、踏み絵を最後までせずに信念を貫いて死んでいった人だけではなく、弱きものが書かれている。

あまりにも貧しくて、何かを希望を持たないと生きてはいけないギリギリの状況に置かれている人たちだ。

キチジローという人物が窪塚洋介さんが演じていたのだけど、まさに弱さを持ち合わせ、時には裏切り、迷い行きた人物。
捕えられたら簡単に棄教してしまう。
怯えているときもあれば、立場が変わると人を見下すような姿もあった。

遠藤周作は、キチジローは私だと言っていたという。
多分、自分自身もこういった一面があるからこそ、なんとも見ていて嫌悪してしまう。

ロドリゴは何度も、なぜこのような状況を見ながらそれでもなお、沈黙するのか。と直視し難い問題を問いつつける。
自分が大切にしているものが打ち砕かれようとする。

司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。  
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

遠藤周作『沈黙』

沈黙や深い河のような、人生を問われるような作品とは対局にユーモア溢れる作品を残してきた遠藤周作さんのことにより興味を抱くようになっている。

私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。
私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。

遠藤周作『沈黙』

『沈黙』のなかで綴られていた言葉が浮かんできた。

信仰とは何か?

さらに、この機会に読み返して、驚いたのは信仰について。

キリスト教の信者になったものは、信仰の確信を持っているという誤解があります。「信仰というものは、九十九パーセントの疑いと、一パーセントの希望だ」と言ったのはフランスの有名なキリスト教作家ベルナノスですが、私は本当にそうだと思うんです。

遠藤周作『死について考える』

まさに、信者となったものは信仰の確信を持っていて、沈黙では、その信仰が揺らいだと思っていたが、そうではないかもしれないと揺れている。

撮影OKゾーンのアクリル版に書かれていた言葉は、ぐるりと展示会を観たあとだったためか心に沁みた。

展示会場を出たあとに向かったのは、思索空間『アンシャンテ』

遠藤周作さんがこの地に訪れたときに、「神様がぼくのためにとっておいてくれた場所だ」と大変喜んだという。

夕日は見れなかったけど、生活から軸足を人生に向けて考える時間をここで過ごすことができた。

最後に、生誕100年特別企画を記念して販売されている『遠藤周作とのめぐりあい』という記念文集を購入した。

遠藤周作さんと縁のあるマーティン・スコセッシや窪塚洋介さん、さだまさしさんなど66人からの文章が寄せられている。

また今回を機会に、遠藤周作さんが伝えようとしたことを受け取っていきたいと思う。

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