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少年院卒のお金の稼ぎ方

私のお金の稼ぎ方は、特別じゃない。

多くの人がやっていて才能も必要ない。

noteの書き方とライター仕事の書き方は異なるが、特段文章の才能があるわけじゃないことは分かってもらえるだろう。

ブログを運営し広告収入を得ることも多くの人がやっている。

株で利益を得ている人なんてそれ以上にいるはずだ。

今日は今の年収に漕ぎ着けるまでの、そして今の稼ぎ方をつらつらと。


「誰が読むか」と同じだけ「誰と働くか」が重要


前にも書いたが、ライターは誰でもできる仕事だ。

パソコンとネット環境と読解力があれば、学生にも社会人にも主婦にもできる。

今はスマホでOKというクライアントもいるくらいだし、お小遣い稼ぎでなく生計を立てる方が難しいくらいだ。

私はライターになりたての頃、読者の顔を想像して書くことばかり考えていた。

読み手にとっていかに有益か、読み応えがあるか、またこのサイトを閲覧しようと思ってもらえるか。

それ自体は間違いでなかったのだろうが、多くのライターが同じことを考えていると気付いた。

純粋に文章を書くのが上手いだけなら私より能力の高い人はいくらでもいる。

彼らと同じ土俵で戦うことは諦めたが、それでも仕事が欲しければ文字単価を下げるしかなかった。

だが、文字単価はいくらでも下げることができる。

1文字0.3円の仕事はどこにでも転がっているが、士気も下がるしそういうクライアントに限ってああでもないこうでもないと注文が多いのだ。

ライターという仕事を嫌いになる前に、私は私なりの戦い方を考える必要があった。

会社に入ると分かるが、どの仕事も業務内容を嫌になることはほとんどない。

問題のほとんどは社内の人間関係にあり、働いていて楽しい職場なら業務上の苦痛など大した問題ではないだろう。

そこで私は私という人間を売り物にすることにした。

「この人だから頼みたい、一緒に働きたい」と思ってもらえるポジションを探すことにしたのだ。

このときキャバクラで培った接客の経験がとても役に立った。

私に学力はないが、会話の引き出しだけは無限にある自信がある。

興味のないことも相手の好きなことであれば徹底的に調べ、私と話すことを楽しいと思ってもらえるように努力した。

すると積極的に手伝ってもらえるようになり、できるできないの前に「こんな仕事があるんだけどどうかな?」という提案を受けることも増えた。

結局どの仕事も、重要なのは「誰と働くか」である。

会社員であれば上司や部下、同僚を選ぶことはできないが、業務委託やフリーランスはクライアントにも無限に選択肢がある。

自分より才能のある人と同じ土俵で戦うことより、自分にしかできないことを探す方がよっぽど近道である。

ライターになりたての頃、自分をブランディングすることにとても苦労した。

それは自分より才能のある人と同じ土俵で戦おうとしていたからだ。

だが、自分にしかできないことを見つけてからはブランディングするのも楽だった。

誰にでも長所と短所があるし、短所をブランディングすることでお金に変えることも可能であろう。

ものは考えようだ。

自分をよく知っておくことが、最も強い武器となる。


継続するために自分を知るアフェリエイトという仕組み


YouTubeの広告収入が大幅に下がったようだが、ネットの広告収入というのはこれからも下がる一方だろう。

なにより人口が増えすぎているし、広告収入だけで「今から」生活を成り立たせるレベルまで持っていくのはなかなか厳しいと思う。

それでも隙を突いてアフェリエイトを継続することはできるだろう。

収入のひとつとして考えれば、今からでもまだ十分に戦える可能性はある。

まずはどの層を狙うかが重要だ。

私は少年院卒という特異な経験を生かし、教育関係、犯罪関係、そしてこのnoteを経験談として売り物にしている。

特に需要が多いのは教育関係で、失敗談を多く語ることで育児に悩む親御さんが多く閲覧してくれている。

成功談は世の中に溢れているが、綺麗事だけでは上手くいかないから悩む人がいることを私は経験を通して知っているのだ。

社会の最底辺を生きてきた「ダメな子ども」というポジションに自分を置くことで、自分の子どもと重ね合わせながら「そうならない方法」を多くの親御さんは模索している。

右へ行けば正解だよ、と言われても人は信じない。

だが、左へ行くと失敗するよと言われれば人は信じる。

そんなことを書き続けているうちに、今では生活費の支払いに困らないくらいの収益を上げることができた。

しかし、最初は数十円稼ぐのがやっとだった。

書いても書いてもお金にはならないし、継続が大事だと言われても毎日ブログを書くのは容易いことではない。

それでも「人は同じことを14日間繰り返すと、15日目からはやらないと気持ちが悪くなってくる」という心理学を信じてとにかく書いた。

気が乗らない日ももちろんあるから、気が乗っている日に書き溜めては予約投稿を利用した。

例えば3日分の予約投稿があれば、それは保険となり心に余裕ができる。

「最悪3日間ブログを書かなくても勝手に更新される」

その気持ちが自分のやる気を上げる、もしくは削がない理由になり、また書こうと思えるきっかけにもなった。

予約投稿という保険を徐々に増やし、心の余裕を増やしていく。

そうすることで継続することは容易くなり、耐え忍んでブログを書くのではなく楽しんで続けることができた。

今ではほとんど相談に乗るブログと化しているが、同じ悩みを抱える親御さんがたくさんいることにも気付いた。

そこから見える日本の問題点や教育の改めなければいけないことを知り、最近は政治を勉強してはそういった観点から突っ込んだサイトでも作ろうかと考えている。

元々は楽して稼ぐために始めたブログだったが、結果的に収益が上がり誰かの役に立つこととなった。

最初から人に感謝されたい、誰かの役に立ちたいという気持ちがあってはオナニーを押し付けているだけになるだろう。

誰かのためなんて綺麗事じゃなく、自分にできることをただ毎日繰り返すだけでいい。

お金も人も結果的に付いてくるものであって、最初からそれを望めば離れていくに決まっているのだ。

私は3日坊主な自分の性格を分かっているから、有料会員の手数料を払ってでも予約投稿というシステムに頼った。

もちろん最初は赤字だったが、継続するための手数料だと思えば月に500円くらい安いものであろう。

商売をしていれば分かると思うが、初期投資が0円で始められるビジネスなど存在しない。

そのような謳い文句を掲げる仕事ほどぼったくりシステムが出来上がっているし、逆に初期投資が膨大ならそれだけ稼げるということでもないのだ。

自分にできることに見合った金額なら、支払いをケチったりしてはいけない。

そのために他にバイトを掛け持ちしたり別のビジネスに手を付けたりと、何度も言うが「ものは考えよう」なのである。


お客さんにもらった「捨ててもいいお金」で株を始めた


私はキャバクラ時代にお客さんからもらったプレゼントは全て現金化してきた。

基本的に彼らは「自分のあげたいものをプレゼントする」ので、私の趣味嗜好を尊重するより「俺の好きな女の子になってほしい」という感情が強い。

アフター用に一通りのコーディネートだけ残しておいて、あとは全て現金に換えた。

キャバクラをしながらライターとブログもやっていたので、彼らからもらった現金は「あってもなくてもいいお金」だったのだ。

その頃ちょうど「ポーカー」というゲームを知った。

カードゲームの一種で世界ではお金を賭けたギャンブルとして知られている。

日本ではもちろん違法だが、心理戦で争うポーカーにどハマりし、アプリでゲームをしたりお客さんと遊んだりしていた。

一時期プロポーカー師になるのも悪くないなと思っていたときがある。

世界大会は数十億という賞金を賭けて行われるため、その気になればポーカーだけで食べていくことも可能だろう。

だが、これまた男ばかりの世界である。

私はホルモンバランスに左右されやすいと自負しているため、感情が一定の男の人と対等に戦うことは難しい時期があった。

いくら男脳だといわれても、体の仕組みは女性だ。

ポーカーは今でも好きだが、趣味として楽しむレベルで十分である。

そんなときに教えてもらったのが株だった。

相場を見ているのは楽しいし、ニュースや誰かの発言ひとつで上がり下がりする株は私にとってポーカーの心理戦に似ていた。

相手の手札を予測して、時に嘘をついたり相手をはめたり、どこに自分の勝ちがあるか模索する様子はとてもエキサイティングできるものだった。

これが自分の生活費や給料で株をやっていたら、ゲーム感覚でなどできなかったかもしれない。

「なくなってはいけないお金」を賭けに使えば、人は必死にならざる負えない。

必死になればなるほどアリ地獄にハマるのがギャンブルであり、ポーカーだ。

これは対人ゲームの全てに当てはまるだろう。

「どうでもいいお金」なら、なくなっても増えてもどちらでもいい。

なんの負担も不安もなく株というゲームを純粋に楽しめたのは幸運なことだったと思う。

よく「手持ち30万で株を始めることはできますか?」と聞かれる。

株を始めるだけならできるが、そのお金はどんなお金だろうか。

十分な生活費があり「あってもなくてもいい30万」ならワンチャンあっても、生活費を削って捻出した「なくなってはいけないお金」ならやらない方がいい。

それでも行かずにはいられないのが、パチンコ依存症だ。

負けると分かっていて勝負を挑むのは愚か者のすることだろう。

多少の上げ下げはあったとしても、精神的に負担のない状態で勝負を始めなければスタートはマイナスになってしまう。

株は世界情勢やその時々によって動くが、結局相場を動かしているのは「人」である。

焦って焦って相場を読んでいる人と、コーヒーを飲みながら音楽を聴いて楽しんでいる人とでは結果に差が出て当然だ。

情報を得るにも精査するにも余裕がなければ、なにが正しいかを見分ける判断能力が落ちてしまう。

ワタワタしていたら間違いに気付くのも遅れるし、それがなくなってはいけないお金なら取り返しのつかないことになりかねない。

私はどうでもいいお金を作って株を始めたが、ホームレスを始めた頃には株もほとんどなかった。

そこから取り返すために新たにお金を作ったのだが、それがアフェリエイトでありブログだ。

自分の生活費だけは別に(ライターという収入)で確保しておき、どうでもいいお金を別に作る。

そのプロセスを踏むだけでゆとりができ、また落ち着いてゲームを始めることができたのだ。


お金と時間の使い方を学ぶ


年収が0から800万になり、変わったことがいくつかある。

まずはお金の使い方が変わった。

昔から洋服が好きでよく買っているが、昔は安くて流行りのものを大量に買う癖があった。

いわゆるファストファッションと呼ばれるブランドだ。

ワンシーズン着たら使えなくなるほどチープだが、流行りのシーズンだけ着るなら十分なレベルの価格帯と製法である。

だが、年収が上がってくると、結果的に無駄なお金を使っている気がしてならなかった。

後にも先にも捨てる以外に選択肢のない服に、毎シーズン何万円というお金を使っている。

来年も着れることはないし、売ったところで数百円にしかならない。

だったら高くても長く使える服を買う方が、結果的には得なんじゃないかと考えた。

昔はTシャツなんて1000円も出せば十分だと思っていたが、5000円のTシャツは洗っても伸びないし次のシーズンも着ることができる。

1000円のTシャツを5枚買ってもワンシーズンで捨てることになるなら、5000円のTシャツ1枚を来年も着れるように大切にした方が得だろう。

そんな風にして「シンプルで飽きのこない、質のいい服」を買うようになった。

ブランドにこだわるより、いかに飽きずシンプルで自分の体に合うかを重視している。

同じように家具や家電を選び、時間の使い方も考えるようになっていった。

私はとにかくひとりの時間が好きだ。

みんなでワイワイするのはストレスだし、楽しいより帰りたい気持ちでいっぱいになってしまう。

時間を使うというのは、お金を使っているのと同じだ。

そうすることにどれだけ価値があるかを考えれば、人付き合いは自然と価値あるものにしか使いたくないと思うようになる。

無駄だと思う人間関係は徹底して排除し付き合う人間を精査した。

電話やメールで済ませられるレベルのことであれば、わざわざ時間を作るようなことはしない。

逆に会って話したいと思う人のためなら、都合はいくらでもつけた。

これはライター仕事でもいえることだ。

価値あるクライアントのためなら時間はいくらでも使うが、先がないと判断したクライアントに無駄な時間は一切使わない。

ブログを書き溜めて予約投稿することでできた時間をどう使うか。

別のビジネスで稼ぐのか、趣味として楽しむ時間にするのか、はたまた人と会話する時間とするのか。

ただ、私にはひとつだけ変えられないことがある。

恋愛だ。

「この人だ!」と思ったら、お金も時間も惜しまずにのめり込んでしまうところだけはどうしても変えられない。

なにをどうしてもろくでもない男に惚れてしまうし、そうなると自分でも手が付けられなくなることを理解している。

もはや恋愛も趣味の一部なので、そのためにいかに時間をかけずにお金を稼ぐかを考えた。

お金と時間が自由に使えれば、どんなに振り回されても痛手を負うことは少なくて済む。

自分がどんな風に生きて、なにに夢中になるのか。

そのために必要な時間とお金を理解していれば、誰の世話にもならず迷惑もかけずに好きなだけ遊ぶことはできるのだ。

「28歳だしそろそろ落ち着いたら?」とよく言われるが、私は死ぬまで遊び続ける。

ばあちゃんになっても恋焦がれていたいし、ゲームという名のお金稼ぎにエキサイティングしているクレイジーなばあちゃんになるのが目標である。

どんな風に生きていても、本人が人生を楽しむことが1番だろう。

私の人生には落ち着く時間など不要だ。


常に死ぬことを考えて生きろ


これを知り合いの坊さんに話したら極論だなといわれたが、人生は常に選択していくことで成り立っている。

「死ぬとしてもそうするか?」

「そうしないと死ぬのか?」

そう自分に問いながら選択していれば、物事の優先順位を付けやすくなる。

私は自分でも親不孝な子どもだと思うが、親は確実に自分より早く死ぬ。

そして、親と過ごす時間より遥かに長い時間をひとりで生きることになるだろう。

今のところ人間が不老不死になることはないし、私が寿命を迎えるまでにそのようなシステムができることもないだろう。

ということは、遅かれ早かれ誰でも死ぬのだ。

死ぬために生きていると考えれば、人生を考え直すきっかけになるのではないだろうか。


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