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「誰かに必要とされる」ことは必要か?

嫌なこと(特に仕事)でも一生懸命頑張る、その理由として「頑張り続けていれば誰かが認めてくれるから」というものがあります。


そうすることで「誰かに必要とされるようになる」ということで、それが生きがいになるというのが世の中の一般的な考え方だと思います。


ですが、私はこれには常々疑問でした。


そもそもなんで「誰かに認められる」必要があるの?、「誰かに必要とされなければならない」の?ということです。


というのも、私自身、自分の取り組んできたことが誰かに認められ、必要とされることなんてほぼ無かったからです。


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武道と学問の取り組みは、私のいる流派の中では評価されますが、それ以外に他人に評価されて必要とされることなんて何一つ、まったく欠片もありません。


そのような中で、来る日も来る日も秋山大治郎道場(先生一人だけで稽古している道場)の状態で居ますので、他者に認められ、必要とされるということに必要性を感じないだけでなく、主体性の喪失でしかない=評価されるため、必要とされるために自分の筋を曲げてしまうこと、という認識が強いです。


具体的に言いますと、私がやっていて面白いと思うことの中で、最も中心にあるのは兵法・武道です。


ですが、私のいる武門以外の人で、私が武道の修業に日々勤しんでいても、それを評価し、必要とする人が果たしているでしょうか?


そう考えた時、私は「誰かに必要とされるとか、評価されるとかを軸に考えること自体が間違いであり、自分が自分のやっていることに意味を見出せるか?、それをやっていて面白いと思えるか?ということが自分の取り組みを評価する評価軸の全てである」と思いました。


もちろん客観的、かつ巨視的な視点で俯瞰すれば、私が兵法を修業し、その成果を学問化して遺すことで、何百年、何千年後に私の遺した成果を受け取るだけの同じ方向性の人が現れるかもしれない、そのために文化遺産として遺すのだ、ということが大前提として存在してはいます。


ただそれは私が死んだ後の話であり、いま自分が生きている世の中で評価されるかどうかということとは全く関係のない話です。


この辺のことをイメージしやすい材料としては、アニメ「フランダースの犬」で、天才的なネロの画才は、どん底人生を歩いて行きついた果てにパトラッシュと一緒に凍死してから評価されたのと同じことだと思ってもらえれば分かりやすいかと思います。

(現実世界だと、ゴッホあたりがネロと同じような人生を歩いています)


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この二つの事柄が相まって、今生きている世界から評価される、必要とされるということについて、完全に度外視して生きるようになりました。


私自身は兵法という極めて特殊な世界で生きる者ですが、しかしいわゆる「普通の」人生を歩いている多くの人でも、私と同じような現実に直面している人は実は多いのかもしれないと思いました。


なので、そういう人がもし居たとすれば、誰かに必要とされようと無理やり頑張るよりも、誰に見向きもされなくても自分がやりたいと内なる情熱を燃やせるものに取り組み、それに取り組むこと自体に幸せを感じること、というように考え方を変えた方が幸せになれるでしょう。


以前投稿した「努力不要論・努力有害論」でも書きましたが、何かのために我慢して何かをするということは、自分が苦しくなるだけでなく取り組んでいるものそのものが、別の何かの目的のために踏み台にされているという二重の意味で良くないことです。


なので、まず何を第一に考えるべきかと言えば、それそのものをやっていて楽しいのか、それが禁止されて刑務所に入れられるとしてもやりたいという情熱が湧くのか?ということを基準に考えていった方がいいと思います。


そういう対象がそもそも見つからないという場合は、自分にやれることを増やしていくことで、興味を持てる対象を見つけられる確率を高くすることができますが、本題ではないので別の機会にまた書きます。


ともあれ、他人の目で自分の人生を測ってはいけないということが今回の根本的なテーマでした。

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