自己紹介(小学生編)

初めまして、damehumanです。
唐突ですが自己紹介をしたいと思います。
生まれてから今に至るまでを振り返りたいと思います。

<生まれ>
私は大阪の淀川キリスト病院というところで生まれました。
親から度々言われていたため何故か病院名を覚えています。
生まれは大阪なのですが、幼稚園に上がる頃には親の仕事の都合で広島に引っ越したため、大阪での記憶はほとんどありません。人に話す時は大阪生まれの方が都会育ちみたいな感じでかっこいいので、大阪生まれってことにしています。だから大阪でどうやって過ごしていたかはあまり記憶がなくて、親の話を聞く限り茨木市に住んでいたようです。阪神大震災も経験しているみたいです。親から大阪での話をよく聞かされていたせいか、昔からなんとなく大阪や関西にシンパシーを感じていて、いつかは大阪に住みたいなってずっと思っていました。狙っていたわけではないですが、結果として今は大阪に住んでいるので、何かの縁があったのかもしれないですね。

大阪で生まれて、その後は親の会社の都合で広島に引っ越すことになります。とはいえその辺の記憶はほとんどないです。体感としては気づいたら広島にいたような気がします。幼稚園も広島だったんですが、覚えている最古の記憶は幼稚園から始まります。家の近くの私立の幼稚園に入園しました。ここら辺の記憶は薄ぼんやりとですがあります。不思議なもんですよね。とても昔のことなのに何故か覚えている。(※ちなみに今は30歳です。)
仏教系の幼稚園で、そうゆう授業的なものがあったような気がします。そして当時の自分は割と社交的な方だったんじゃないかと思います。今からは考えられないですが、どんな人とも割とすぐに仲良くなっていたイメージがあります。全然違ったらすみません。過去の記憶だから美化されている可能性はありますが、おそらくそうじゃないかなと思います。友達と一緒に泥団子をよく作ったり、幼稚園の行事でラグビーをしたりと割とそこそこ頑張っていたような気がします。途中なぜか女の子になりたくて髪を結んで、幼稚園に行っていたこともあったようです。LGBTとかではないんですが、当時はそんなこともあったみたいです。自分でもなんでそんな風にしたのかがよくわかりません。ただなんとなく女の子になりたかったような気持ちがあります。今は全くないですが。

幼稚園を卒園して、その後は広島の公立小学校に入園します。初めて小学校に行く時は緊張していたのを覚えています。私の隣の席はフィリピン人とのハーフの女の子が座っていました。何故だか私のクラスはフィリピン人とのハーフの人がやたら多かったです。理由はよくわかりません。当時の私は今とは比べものにならないくらいに社交的だったので、割とすぐに周りの子達と仲良くなり、小学校時代はあまり友達というものに苦労した覚えはありませんでした。小学1年生の頃の話は入学式で初めてクラスメートと一緒になってそこが緊張していたことを覚えていますが、それ以外のことはあまり覚えていないのが正直なところです。そして小学2年生になって、野球部に入りました。自分から入ったわけではなくて、親に入れられました。野球には正直あまり興味はなくて、どっちかといえばサッカーの方が興味がありました。父親が昔野球をやっていたとかで息子にも野球をやらせたいという思いから入れさせたようです。

野球部に入ったものの、私は運動神経はあまりよくない方で、大して活躍はできませんでした。個人的には野球部でレギュラーになりたいとかそうゆう思いはなくて、そりゃなれるならなりたいけど、でもなれなくても別にいいやってタイプでした。でも両親はそんな私の態度が気に入らなかったようで、なんで悔しがらないんだ!補欠なのにヘラヘラするな!とかそんな調子でよく怒られていました。多分野球をすること自体は嫌いじゃなかった。けどそんな風に親に言われていらぬ劣等感を植え付けられてたような気がします。これはよく人に話すんですが、ノックの練習を受けている時に、ボールを取りそびれてしまって、グラウンドを走っている時に、母親がすごい顔で私を睨みつけていたというエピソードがあります。当時は、というより今もなんでそんなに怒っていたのかが全く理解できない。本当に。これは今思い出しても全くもって理解できなくて、イライラするレベル。別に両親も野球がめちゃくちゃ上手くてプロ野球とか、スポーツ選手だったとかでもない、ただの、本当にただのなんでもない、一般の中の一般市民でしかないくせして、なんで息子の野球にあんなにも熱を入れていたのかが、全く理解できません。ただそんな風に親に追い立てられるようにレギュラーを目指して野球をしていたら、たまたま監督に気に入られてキャプテンになることになりました。

しかしそれも自分にとってはプレッシャーの方が大きかったような気がします。そもそもあんまり野球自体を見ることはあんまり好きじゃないんですよね。プロ野球とか見るのは苦痛でした。でも野球部の周りの子達は普通にプロ野球が好きで、選手の名前とか素振りの真似とかをよくしていました。だからあんまり周りについていけなくて、それが嫌で義務感でプロ野球を見ていたりしましたが、面白さが全くわかりませんでした。これは今でもそうです。キャッチボールやボールをキャッチするのは好きですが、それ以外のことはあまり好きじゃない。野球のルールも難しくて苦手でした。守備の時はボールを取ったら次どこに送球をすれば良いか、そんなことばかり考えているようなやつでした。そんな奴がキャプテンになんかなるべきじゃないですよね。当時から今に続くような感覚を持っていたことが驚きです。そうこうしているうちに、転校生がやってきて、そいつが自分のポジションをあっさりと奪っていきました。私はキャプテンですが補欠落ちになりました。それで心が折れたんでしょうね。親にも伝えて野球部をやめることになりました。そのころ小学5年生で、親としても野球ばかりでなく、勉強の方にも力を入れて欲しかったみたいで、あっさりと簡単にOKがもらえました。それくらいの感じならなんであんなに厳しかったんだよ!と思わなくもないですが、、

そして小学2年生から始めた野球部を小学5年生で辞めることになるんですが、小学4年生の頃には親から勉強をさせられるフェーズに入っていました。数学の成績があまり良くなくて、それを見かねた親が学校から帰ってきた自分に対して勉強を教えるみたいな感じでした。何をやっていたかは詳細には覚えていませんが、100マス計算や市販のドリルなどを毎日やっていたように思います。これは結構効果的で、学校の成績はみるみる上がっていきました。特に100マス計算が効果的で、計算力が爆発的に伸びたような気がします。苦手からやや得意くらいまで引き上がったような感覚があります。そんな感じで成績はそこそこ伸びていたのですが、どうやら両親は中学受験をさせたかったようで、私に野球部を辞めさせて勉強をするように進めてきました。そして私は中学受験用の学習塾に入塾することになりました。入塾するのに試験があって、それを受けさせられました。塾には3クラスあって、私は1番下のクラスに入塾しました。中学受験用の塾って中学レベルまでの授業を先行してやるので、小学校で習うことよりもだいぶ先なんですよね。だから初めて塾に行った際にめちゃくちゃレベルが高くて驚いたことを覚えています。初めての授業は歴史でした。新しく習うことばかりで楽しくて、家に帰ったら親に意気揚々と塾で習ったことを話していたら、何かの用語を間違えていたようで、そこから親にひたすら怒られて、結果としてめちゃくちゃ辛かったのをよく覚えています。そんな調子で、あまり出来が良くないので、家に帰ったら毎日勉強で怒られるのでそこは本当に憂鬱でしたが、塾自体はかなり楽しかったです。クラスのみんなとも仲良くなって、塾に行くのは楽しかった。小学校に行くよりも全然楽しかったことを覚えています。ただ塾の模試とかで成績が悪いと親から殴られたり、泣かれたり、無視されたりするのが大変でした。これは懺悔なのですが、ある模試の結果がめちゃくちゃ悪くて、それを親に中々伝えられなくて、でも意を決して伝えたらやっぱりむちゃくちゃ怒られて、だからその時、模試の回答をこっそりと書き換えて親に話しました。採点ミスがあるから、これが合ってたら偏差値はもっと高いはずだと言いました。そういうと親は満足げな感じになり事なきを得ました。しかし、親は塾に採点ミスがあると言うべきだと言い出して、私は真実を言えずにそのまま塾に伝えることになりました。塾の先生のミスということになってしまい、これは今でも本当に申し訳ないと思っています。こんな卑怯なことすべきじゃなかったとそう反省しています。今思い出しても暗い気持ちになってしまいます。閑話休題。とまあ色々な辛いことがありつつも、なんとか受験合格することはできました。とはいえ第三希望くらいの学校です。親も相当イカれてると思いますが、私は私で大概アレな感じですよね。そして次に中学に進学します。(続く)


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