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青二才、死生観を語る

わたしは死に対して興味がある。
これは、厨二心なのか、はたまた。しかし今はそんなことはどっちだって良い。
死ぬことについて、考える。

この文章は多くの人の目に亘ってしまったのなら、炎上するのかもしれない。
死生観、宗教を語るのは火種になりかねないし、誤解を産む可能性もある。

でも考え、のこしておきたいと思った。

延長の前提

万物の生命は死ぬために生きているんだと本気で思っていた。
自決はまわりへの復讐であり、殉死や切腹などは一種の美学、寿命は褒美であると考えている。
わたしは何かあるとすぐ死と天秤にかけ、これではまだ死ねない、もしくはこれで死ぬわけではない、などという考え方をする。人に言わせれば極端な思考かもしれない。極端の尺度なんかも人それぞれで、わたしは生の延長、死後後世まで含めて生だと考えているため延長線の対極(極の端と端)とは捉えていない。

復讐

言葉は重いが裏を返せば自決しない理由である。暗闇をもがいた日々もないことはなく、今日の風が少し強かったならばそのまま翼を広げた可能性のある夜だってある。しかし私の周りはそれを許さなかった。当時からしてみればありがた迷惑ではある。反面、涙が伝う。翼が生えかけているときは己の翼にしか目がいかなかったが、翼の成長が止まると、隙間から覗く周りの人たちがいる。私の周りは暖かだった。私がこのまま羽ばたいてしまえば、きっとこの人たちは涙し、永遠に引きずり、思い詰め、時には自責の念に駆られるかもしれない。いつか彼らが羽ばたく日まで、想ってくれるに違いない。そうとまで言えるほど暖かい周りの人たちと目を合す。わたしが自決することはこの人たちへの復讐となってしまうのだと思う。再度暗闇に訪れた時、周りが暖かいことを知っているので尚更苦しい。暖かに包まれた中心の孤独にいるかのようで、もがくのが無駄とすら感じてしまう。これは、あの夜翼が生えかけてしまったわたしへの、復讐なのかもしれない。

美学

殉死も、切腹も、広く捉えたら自決である。しかし明確に違うのは自決のワケだ。わたしは殉死の概念を知った夏、なんて美しいのだろうと思った。死後の世界は死後に行ったものにしかわからない。死後の世界があるのかも、わからない。そんな未知へと踏み入り主君や夫を追いかける。深い愛を感じる。これはわたしの学がないからこのような感想なのだろうか。しかしこれ以上の知識でせっかく感じた愛を失いたくはない。そして、切腹にも似たものを感じた。何を想い、腹を切るのか。自責から逃れるためか、やむを得ない何かがあったのか。これも愛ではないかと思う。誰かを、なにかを想い、自決。これも愛ではないか?少々美しい側面を都合よく切り取りすぎているように思うが、この愛が美学でないならなんなのだろう。

褒美

これは、あるアーティストのエッセイからの引用である。

生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を、強制的に歩く行為なのだ。だから死は、一生懸命に生きた人に与えられるご褒美なんじゃないか

星野源『蘇る変態』マガジンハウス(2014)

感銘を受けた。これは反感を呼びかねないが、わたしはどん底の気分のとき自決に対して憧れを抱き、時には狡い、羨ましいとすら感じてしまう。そこで自問する。わたしはご褒美に足りるほどのけもの道を歩いたのか、と。答えはいつもNoなので、今、生きている。

延長の結論はない

生きている今こそが素晴らしく、美しく、素敵なものでなければいけない。そんなふうに思いがちな時、翼が生えかける。しかし上記の考え方をすることで、今素晴らしいものである必要はないのではないかと思い直した。

いつかこの延長線上で、褒美をいただけるのだろうか。

これらが死に対して興味がある根底の所以なのかもしれない。

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